棚田のある大山地区は、典型的な中山間地の農業地帯で、都市部に出て行く跡取りが多かった。山の中腹までひらかれた棚田の多くが森林に戻り、1990年代には大山千枚田でも耕作放棄地が出現し始めていた。
「農家の石田理事長らが危機感を抱き、なんとかして大山地区を元気にしなければと模索していました」と浅田さんは話す。
鴨川市役所にも同じような問題意識があった。地域と協力して都市と交流しようと構想を練っていた。そうした両者の思いが合致して、大山での仕掛けが始まっていく。
「東京に一番近い棚田」の戦略
ただ、何をすべきか、最初はターゲットが絞れなかった。侃々諤々(かんかんがくがく)の議論の末、棚田に焦点を当てたのは、「逆に言えば、棚田しかないような地区だったのです」と浅田さんは笑う。当時はまだ、「大山千枚田」という名前もなく、普通の棚田の一つだった。
まず、大山の各地区から代表を選び、97年に保存会を結成した(2003年にNPO法人化)。99年には、農水省の「日本の棚田百選」に認定された。2000年からは棚田のオーナー制度を始めた。都市部の住民に棚田を1枚、有償で貸し、田植えから、草刈り、稲刈り、脱穀までの農作業に、年に7回ほど来てもらうのである。
「東京に一番近い棚田」をうたい文句にオーナーを募集したが、それでも春から秋にかけて7回も往復するのは大変だ。しかも、全国の「棚田百選」では唯一、川がなく、雨水だけで耕作している。漏水すれば稲作ができなくなってしまいかねないので、田んぼの畦(あぜ)を塗り固める作業には神経を使う。
下の田んぼは、上からあふれてくる水が頼りだ。災害で畦が壊れれば、田んぼ全体に影響が及びかねず、居住していないからといって放置はできない。
オーナーと“気を遣わない関係”を築く
それでも、毎年募集枠いっぱいの申し込みがある。今年は160区画に対し、158組のオーナーが借りた。応募者は東京都や千葉県の都市部に住む人が多い。これとは別に約20の企業や団体もオーナーになっている。残りは地権者の農家らで作付けする田んぼだ。
手間のかかる農作業に人気が集まる秘密は何なのか。
「棚田のオーナー制度は全国的に広まっていますが、オーナーを『お客さま扱い』する地区が多いのが実情です。私達はそうではなく、一緒に地域の課題を解決する仲間と位置づけています。だから、お互いに思ったことを遠慮なく言い合う。人手が足りなくなった時には『助けに来て』などと救援も求める。こうしてよそから来てくれる人は、地域の良さを見つけてくれます。『発見』を地域の元気に結びつけたいと考えているのです」と浅田さんは語る。
気を遣わない関係。しかも、地域のために役立っているという実感が参加したいという気持ちをかき立てるのかもしれない。
「東京に近いから人が来るのだろう」と言われることもあるそうだが、「都市は全国にあります。どの棚田も人に来てもらえる可能性はあるのです」と浅田さんは力を込める。