野球が戻ってきた! グラウンドに、少年たちが!
京都にも、東京にも、新潟にも。
札幌にも、福岡にも、松山にも。
折り皺のついたユニフォームをまとい、汗ばむ額のほてりを夏の風に預け、少年野球が日本各地にもどってきた。自主練の成果はあがっているかな。長すぎる休みのあいだ、テレビで野球中継、見ていただけじゃないだろうな。
多少なまりかけた手足を、梅雨の合間の空に、青葉のようにせいいっぱい差しのばし、野球少年たちがグラウンドを駆ける。土をふみ、こんがり太陽が照りつける真夏の空のほうへ、全員で声を合わせ、スパイクを光らせて一歩いっぽ走る。
戻ってきた、野球が。
西宮の、甲東にも。
宮城の、沼辺にも。
テルくんの野球は、勲さん、そして「強い阪神」とともに始まった
1974年、宮城県柴田郡で、「沼辺少年野球クラブ」が産声をあげた。この地区に在住の、佐藤勲さん(当時35歳)が有志に声をかけて結成し、初代監督を務めた。佐藤さん本人も、中学までは青葉繁れる、日焼けした野球少年だった。
このころの阪神タイガース。前年の8月、江夏豊がノーヒットノーランのまま延長11回裏、みずからのバットでサヨナラホームランを打ち試合を決めている。また、74年の春には、ドラフト6位指名のルーキー、千葉出身の掛布雅之が入団する。
佐藤家次男の博信くんは、入団後、クラブのエースへと成長していった。勲さんは自宅の庭にピッチャーマウンドを作り、日々、博信くんの投球練習をサポートした。
クラブは地区大会優勝を果たすものの、宮城球場で行われた県大会では、味方のエラーがからんで敗戦。その夜、いっしょにお風呂にはいった博信くんは、勲さんに、
「野球はやめる。柔道に専念する」
と宣言する。
博信くん、いや、佐藤博信さんは、その後仙台育英高校に進み、2度の東北王者に輝いた。日体大では主将の古賀稔彦とともに副主将として活躍し、柔道家として全国にその名を轟かせ、卒業後、大阪産業大学の教員を経て、関西学院大学で准教授の職についた。
西宮に住む博信さん一家は、毎年の盆と正月、宮城、沼辺への帰省を欠かさなかった。博信さんの長男、孫の輝明くんを、祖父の勲さんは「テル、テル」と呼んで可愛がった。
勲さんの野球好きは醒めていない。小学校にあがる前のテルくんにグローブをプレゼントし、自宅の庭で、声をかけながらキャッチボールをはじめた。クラブ創設のときの若い情熱がよみがえってきた。勲じいちゃんの熱気に引かれてか、テルくんはごく当たり前のように、小学校にあがってすぐ、地元西宮の「甲東ブルーサンダース」に入団した。
沼辺への帰省のたび、テルくんと勲じいちゃんの庭での特訓が恒例となった。炎天下でも、雪まみれになっても、じいちゃんの声を浴びながら、テルくんはボールにくらいつく。じいちゃんの構えるキャッチャーミットめがけ、じいちゃんちの庭を踏みしめ、渾身のストレートを投げこむ。
このころの阪神タイガース。テルくんがはじめてのグローブを手にする前年、2003年には、2年目を迎えた星野監督のもと、ぶっちぎりの優勝を果たす。また、少年野球を始めた2005年、やはり2年目の岡田監督のもと、中日とのデッドヒートを制し優勝を決めている。
テルくんの野球は、勲さん、そして「強い阪神」とともに始まったのだ。
関西圏で行われるブルーサンダースの試合に、勲じいちゃんは毎月、沼辺から駆けつけた。低学年の頃、テルくんはまだそれほど目立つプレイヤーではなかった。
家族で行く、地元・阪神甲子園球場での阪神戦の応援がたのしみになった。勲さん夫婦もいっしょに、親子三代ででかけたこともあったかもしれない。小さなタテジマのユニフォーム。ジェット風船。そして六甲おろし。
3年の後半、地肩の強さがじわじわと発露しだす。高学年で、打球を遠くに飛ばす技術を身につける。校庭のフェンスどころか、3階建ての校舎を飛びこえることも。
当時の監督いわく「ボールがバットに当たっている時間が長い。スイングが速く、バットにボールが付いている感じ」
6年で、捕手、投手、4番バッターをつとめ、年間23本のホームランを放つ。そしてこの年、阪神タイガースジュニアのメンバーに選出される。