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 日本人は謙虚さが美徳とされていた時代です。社会でも家庭でも、自分の考えを主張するよりは、相手の立場や思いを考えて譲る気持ちがよしとされている中、落合の若者らしい礼儀正しさと「NO」と言える部分が、新鮮で誠実に感じられたのでしょう。はじめに「そういうところが気に入ったわ」と言った母が「落合君」から「ヒロちゃん」と呼ぶようになり、父も「囲碁はできるか」と落合を可愛がる。いつの間にか、落合は本当の家族のようになっていました。

 ただ、落合には好き嫌いが多いと知った私にとっては、食の面から落合を一流選手にしていく闘いにプレーボールが宣告されたのです。

落合博満 その後、私は25歳でロッテオリオンズからドラフト3位で指名され、野球を職業とするようになる。大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)が本拠地を川崎球場から横浜スタジアムに移転した1978年、本拠地球場がなく、「ジプシー球団」と呼ばれていたロッテが川崎球場を本拠地とするようになる。

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 私は翌1979年に入団し、東京都杉並区高円寺にある球団寮から川崎球場に通った。朝から練習し、午後は2軍のイースタン・リーグの試合。1軍の試合がある日は、その試合前の練習を手伝っていた。

定食屋から出ると「よーし、それじゃ、家に帰って飯を食おう」

落合信子 目標だったプロになってからも、落合は時間を見つけては私の実家を訪ねてきました。落合から連絡があると、私と母で3人分の食事を作ります。落合、母、私の3人分ではなく、落合が1人で3人分を平らげるのです。そうしたお付き合いを続けながら、私は落合の好き嫌いを探っていました。

 この頃の落合は、いつもお腹が少し緩かった。聞けば、球場で摂る昼食は、ほとんどカップ麺だというのです。また、子供が水に溶いて飲んでいた粉末のジュースの素を、白米にかけて食べていました。基本的には肉が好きで、魚は焼き鮭くらい。刺身や煮魚はほとんど口にしません。それにゆで卵と蒲鉾。この偏食の若者にどうやってバランスのいい食事を摂らせるか。落合を野球で大成させるためにも、食生活の改善には真剣に取り組むようになりました。

 ある時、「俺がご馳走するから」と、落合から外食に誘われました。まだ年俸は高くないけれど、プロになった自覚が出てきたと感じ、とても嬉しくなって出かけたのです。「何でも好きな物を」と言うので、「河豚を食べたい」と返すと、「河豚は嫌いだ」とピシャリ。落合が決めた駅前の定食屋さんに入りました。