スポーツ選手は体が資本。25歳でプロ野球入りした落合博満が現役を退く45歳まで第一線で活躍を続けられたのは、食に関する信子夫人の創意工夫があったからだといっても過言ではないだろう。
ここでは落合博満氏の著書『戦士の食卓』(岩波書店)の一部を抜粋。在りし日の映画デートの思い出から、一人の男の食習慣を変えたある出来事まで……。夫婦が当時の記憶を思い返しながら“食卓の思い出”を振り返る。(全2回の1回目/後編を読む)
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在りし日の映画デートの思い出
落合信子 今でもはっきりと覚えているのは、作品を鑑賞中に落合が手を握ってきたこと。それも両手で包み込むように。そんな落合の積極さに警戒心を抱き、次に会う時からは友人を伴い、グループで出かけるようにしました。その友人の希望で、ブルース・リーの作品を鑑賞したはずです。
そう言えば、映画に誘われた時、落合はオードリー・ヘップバーンが好きだと言っていました。世界的に有名な女優さんは、いつもキラキラとしたドレスを着ているという印象ですけど、私もそういうタイプの服装が好みで、確かこの時も提灯袖のワンピースを着ていたんじゃないかな。
それで落合も手を握ったのかと思いましたが、映画館を出ると私の実家に立ち寄って、両親に挨拶をしたいと言うんです。途中で手土産にウイスキーを買い、本当に突然、落合は私の実家にやって来ました。
「はじめまして。僕はお酒が好きなので、ウイスキーを持って伺いました。飲める方がいらっしゃれば」
落合は若者らしく挨拶をしました。すると、私の母も落合に出身地などを尋ねながら、手早くお抹茶を点てたのです。さて、落合はどうするのかとハラハラしながら見ていると、恐らく見様見真似なのでしょうが、しっかりしたお作法を見せました。
これには両親も驚いていました。そうして、落合に好感を持ち、落合が買ってきたウイスキーを開け、母がおつまみを何品か作りました。すると、どうでしょう。金平牛蒡の小鉢をススッと遠ざけながら、「お母さん、これは美味しいんでしょうが、僕は大嫌いなんで、今度から出さないでくださいね」なんて言うんです。
私は心臓が止まりそうでした。ところが、大正生まれの母はこう言うのです。
「うちには、信子の下に2人の男の子がいますけど、たぶん2人ともよそ様のお宅にお邪魔したら、出された物を嫌いでも我慢して食べるでしょう。それよりも、落合君のように、嫌いなら嫌いだと本心を言えるのは素晴らしいじゃないの」