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月光に反射した二つの目玉がピカッ、ピカッと殺気をおびて…“人喰いヒグマ”の襲撃を受けた狩人の忘れられない“後悔”

『ヒグマとの戦い』より #2

2021/07/05
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 山巓の赤土の小道は、依然として高山植物の連続で、一株数千円の価値ある真柏の老幹を惜しげもなく鉈で切りそいで道が造ってある。断崖にはキバナシャクナゲの懸崖、武者立ちが咲き誇っている。私はそれらにとびついて掘りとりたい欲望でいっぱいだ。私は中標津町で高山植物狂と噂される人間である。いま足もとに点在する植物が欲しくて欲しくてたまらないのは当然だ。しかし、今回の主眼はあくまで指臼山の硫黄鉱である。やむなく断念して、目で観賞する以外ないとあきらめた。

 ヒグマの足跡は、分水嶺を越えると東海岸へ流下する大渓谷へとおりて行き、そこで消えていた。

地響をたてる音にハッとして目が醒めた

 私たちは、夕刻、峠の下の指臼硫黄山へ到着した。あたり一面、硫黄の臭いでむせかえるような雰囲気につつまれてしまう。日は山陰に落ち、われわれは夕食の仕度に多忙をきわめた。

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 ここには紗那から湯治にくる人たちの建てた20平方メートルばかりの草葺きの三角小屋があり、土間に枯草を敷いた寝床がしつらえてあった。ひとまず、われわれはこの小屋を借りて仕事にかかることにした。

©iStock.com

 温泉はいたるところに湧出して、湯口はちょっと数えきれない。そこら一面に湯煙が立ちのぼっているのだ。そのうちで、小屋の裏手の小高いところに格好の湧出口があり、そこから三角の導湯樋で、1.3メートル角ぐらいの浴槽へ引き湯していた。この浴槽には湯の花が沈澱し、充満してあふれ出している。われわれはスコップで湯の花を掘り起こし、すくい出して、お湯をいれて温泉に浸った。

 真夏でも、千島の山巓の月光の夜は冷える。無人の山巓の周囲は黒い大森林で、温泉の湧くここだけが湿原の平地である。2、3秒前に湧いて出た新鮮な適温の硫黄泉に首まで沈め、樋から流れ落ちる白濁したお湯に肩を打たせ、頭を打たせて瞑想するとき、これがほんとの極楽というものかなあ──と思う。およそ歌など人前で歌ったことのない私が、知らぬまにうろおぼえの草津節を口ずさんでいた。ハッと気がついて、だれか小屋にいる者にきかれたのではあるまいかと、思わず四方を見まわした始末だった。

 とにかく、エトロフの無人境である。真夏夜半、月光を浴びて露天風呂に身も心も洗い流している気分は格別だった。なにか一句出そうなものだが、素養のない山男には、残念ながら、思うような句は浮かばなかった。

 床といっても、枯草を敷いたガサガサ音のする上へ外套にくるまって寝についた。が、ウインチェスターは装填のまま、私の枕もとから放さない。エトロフの人喰いヒグマは、人の臭い、馬の臭いをすでに嗅ぎつけていることだろう。他の人たちは昼の疲れでグウグウと高いびきで眠っているが、いつヒグマが襲ってくるかわからないのだ。

 三頭の駄馬は戸口近くにつながれて、夏草をポリポリと食べている。その歯音のリズムが耳に響いて、なんとなく寝つかれなかったが、やがて深い眠りにはいった。

 だがとつぜん、戸口の馬がフウッ、フウッと鼻息をし、ものにおどろいたように、ドシン、ドシンと地響をたてる音にハッとして目が醒めた。