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2021/07/05

ヒグマの襲来

 ヒグマだ!

 私はガバッとはね起き、ウインチェスター銃を握りしめた。そして戸外の動静に耳を澄ます。馬の鼻息はいっそう荒く大きく、ラッパのように、おどろき騒ぐのであった。いよいよヒグマの近づいたことがうなずかれた。

 私は静かに入口の莚をめくって顔を出した。

 すると馬たちは私のほうを見て、トントンと前がきして、早くきてくれというようにする。耳を立て、藪のほうを眺め、綱を切って逃げたいというように暴れる。

 私はウインチェスターの鶏頭を引き起こして、馬からやや離れた切株に身をかくし、全身を耳にして、月光の下にはっきりしない密林内を凝視した。すると、かすかにバリバリと、枯木や枯竹を踏み折って近づいてくる音が耳にはいる。きたなッ、と姿のあらわれるのをいまや遅しと銃口を向けたまま鋭くにらみつけ、照星と照門を狙いあわせて、出たら一発と、息を殺して銃を握っていた。ヒグマのほうも警戒していると見えて、そう簡単には姿をあらわさない。

 馬はいよいよ暴れに暴れて、いまにも綱を切るのではないかとハラハラする。もし綱を切れば、三頭の馬は一目散に山道を紗那へ逃げ帰って行こうとするだろう。しかし、無事に28キロ逃げおおせるはずはない。長い道中、右往左往するうちにヒグマの餌食になることはうけあいだ。だが、この荒れ狂う馬たちをなだめる声をかけることはできない。人声をきいたら、ヒグマは出てこないからである。

 私がほんのちょっと馬に気をとられた瞬間、月の光るなかへ、突如、小山のゆるぎ出たようなヒグマの巨体があらわれた。そして、ノソリノソリと30メートルばかり先から背筋を低くし、這うようにして馬めがけて襲いかかってきた。月光に反射した二つの目玉がピカッ、ピカッと殺気をおびて光った。実にものすごい大物だ。

©iStock.com

 私はからだ全体が小刻みにふるえだした。念にも念をいれ、正確なうえにも正確にと、自分の心を押し静めて、斜め横に襲ってくるヒグマの、あばらの三本目と思うところへ乾坤一擲、必殺の銃弾をぶちこんだ。

 ダアーン。

 静かな深夜の山肌に、一発の銃声は意外な大音響となってとどろきわたった。谷から峰へ、峰からまた谷へと、こだまが、またこだまを呼んで鳴り響いた。

 ヒグマはどっと前のめりに前脚を折って倒れた。しめた──と、私は心で叫んだ。

 しかし、第2弾をと狙う瞬間、私は倒れたヒグマをよく見守ることが許されなかった。それは、とつぜんの銃声に馬たちがいっせいにサオ立ちになり、綱が切れそうになったからだった。おまけに、小屋に寝ていた仲間たちも銃声に夢を破られ、「なんだ、なんだ」とあわてふためき、ドラ声をはりあげてどっと戸外へととびだしてきたからである。

 私は仲間にすぐ「ヒグマを撃った。馬を逃がさないように……」と、早口で絶叫した。

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