6月29日、秋篠宮ご夫妻が結婚から31年を迎えられた。「長い春」を経て、秋篠宮さまのオックスフォード大学留学からの一時帰国中、昭和天皇の喪中に婚約が発表されるという異例の事態となり、賛否両論を呼んだ。だが、「人格否定発言」への苦言、悠仁さまのご誕生、天皇の「定年制」への問題提起などを通して、秋篠宮家は皇室の中で存在感を増してきた。

1989年9月12日、記者会見を終えた礼宮さまと川嶋紀子さん(当時) ©JMPA

 いま、天皇陛下が名誉総裁を務める東京五輪・パラリンピックについて、新型コロナウイルスの感染状況を心配されているとして、宮内庁の西村泰彦長官が「開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している」と述べ、波紋が広がっている。

 象徴天皇制を研究する河西秀哉氏(名古屋大学大学院人文学研究科准教授)は、「天皇自身の言葉ではなく、西村宮内庁長官の発言でありますが、相当に思い切った発言です。天皇自身が『感染拡大に懸念』と直接的に発言をすることは政治的な問題への関与に繋がる可能性もありできないわけですが、オリンピックによって感染拡大に繋がることを天皇が心配しているように見えると、宮内庁長官自身の思いとして発言することはギリギリのラインで許容されるかと考えられます。

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 もちろん、こうした発言を宮内庁長官個人だけの意思でできるものでもないかと思います。東京では緊急事態宣言解除後に感染者数がリバウンドしている状況のなかで、天皇自身がそう考え、そうした思いを長官が理解しているからこその発言ではないでしょうか」と解説する(Yahoo!ニュースコメント)。

 秋篠宮さまは近年の誕生日会見などでも、自由に発言される姿勢は変化していないように見えるが、令和の皇室でどのような役割を果たそうとされているのだろうか。眞子さまのご結婚問題で揺れる、秋篠宮家の30年あまりの日々を河西氏が振り返る。

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納采の儀では「3DKに使者を迎え」

 秋篠宮夫妻が結婚31年を迎えた。昭和天皇の喪中でもあった1989年8月、「朝日新聞」が「ご婚約固まる」とスクープ(「朝日新聞」1989年8月26日)し、そこから2人は常に注目を浴びる存在だった。この記事では「礼宮さまが主宰するサークル『自然文化研究会』に所属したことで知り合い、4年間にわたって交際を続けてきた」こと、「皇族としては異例の、自由な交際からの結婚が実現する見通しとなった」ことが記されているが、2人は恋愛結婚であることが大きくクローズアップされた。平成が始まり、「開かれた皇室」への変化が叫ばれるなかで、「若い2人が、平成の時代にふさわしい、新しい皇室像をつくっていく」(「朝日新聞」1989年8月26日夕刊)と見られたのである。

1989年8月、婚約報道後、初めて報道陣の前に姿をみせた川嶋紀子さん(当時) ©時事通信社

 また、納采の儀の様子を伝える記事では「3DKに使者を迎え」(「朝日新聞」1990年1月12日夕刊)という見出しが付いたように、父親が勤める学習院大学の共同住宅に住んでいることが印象づけられている。この記事では川嶋家を「小さくとも温かな家庭」と表現しており、正田家から嫁いだ美智子皇后以上に、一般的な家庭の女性が皇室へ入ることが強調された。この時期の新聞や雑誌ではこうした言説があふれており、それを私たち自身が受容し、新しい皇室のあり方と見て支持していった。

 そして1990年6月29日、2人は結婚し、秋篠宮家が創設された。当日、紀子妃が秋篠宮の髪を直している写真が撮影され、宮内庁はその配信差し止めを求めたものの、むしろ「ほほえましい」と評価されて多くの紙面に掲載された。これも恋愛結婚の、新しい皇室の象徴と見られたのだろう。「変革を促す『1枚の写真』」と主張する社説まで出たくらいである(「朝日新聞」1990年7月14日)。

1990年6月29日、結婚の記念撮影の合間に、紀子さまは秋篠宮さまの髪を直された 宮内庁提供

 翌年10月23日には長女が誕生。眞子内親王と名付けられた。天皇・皇后にとっては初孫であり、皇室に新しい世代が登場したことで、彼女の成長はその後、メディアで大きく取りあげられることとなる。特に、平成に入って、ワイドショーが皇室ネタを数多く扱うようになっていた。秋篠宮夫妻の結婚、眞子内親王の誕生と成長などはその格好の題材となったのである。1993年1月に皇太子と小和田雅子さんとの婚約が発表され、6月に結婚し、皇室全体がメディアのなかで注目される状況が続いた。1994年12月29日には秋篠宮家に次女の佳子内親王が誕生し、やはり彼女もその成長がその後、メディアで取りあげられていく。