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紀子さまのご懐妊が発表され、事態は大きく変化

 少し遅れて2001年12月1日に皇太子と皇太子妃に長女の愛子内親王が誕生、結婚から8年ほど経て途中流産を経るなど、皇太子妃にはいわゆる「世継ぎ」のプレッシャーがかかっており、そのなかでの出産であった。眞子内親王、佳子内親王、愛子内親王と女性皇族の誕生が相次いだことから、小泉純一郎内閣は2005年1月より皇室典範に関する有識者会議を開催し、11月には女性・女系天皇を容認すること、皇位継承は男女を問わず第一子優先が適当であること、配偶者の男性も皇族とする女性宮家を設立することなどを求めた報告書が提出され、政府は皇室典範改正案作成に踏み切った。ただしこれには反対論も強かったが、小泉首相は次の世代が女性皇族しかいない状況のなかで、改正するしかないと考えていた。

2006年11月、お宮参りにあたる「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」のため、皇居を訪れられた秋篠宮ご夫妻と悠仁さま 宮内庁提供

 ところが翌2006年2月、紀子妃の懐妊が発表され、事態は大きく変化する。与党内で典範改正への慎重論が高まり、9月6日には長男の悠仁親王が誕生、それによって小泉内閣は皇室典範改正案を国会へ提出しない意向を表明した。もしここで改正されていたとすれば、次は皇太子、その次は愛子内親王が天皇になるはずであった。しかしここで改正がなされなかったことで、皇太子の次には秋篠宮家へと皇位が移ることが事実上決まったと言ってもよいだろう。

「人格否定発言」への苦言 あえて“軋轢”を見せられた真意

2004年5月、欧州歴訪に際した記者会見 宮内庁提供

 これと前後して、2004年5月には皇太子が「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と述べ、いわゆる「人格否定発言」を行って、衝撃を与えた。雅子妃が前年に帯状疱疹を発症して公務を休み療養、いわゆる「世継ぎ」のプレッシャーが与え続けられていたことが大きな問題となった。

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 皇太子の「人格否定発言」を受け、秋篠宮は11月の誕生日記者会見で「記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております」と苦言を呈し、兄弟の不和が話題となったが、このように公的な場でそうした軋轢を見せることのハレーションを避けるよりも、秋篠宮は自身の思いを自由に発言することを選択したのではないか。