母・操の葬式
康次郎が亡くなった後、操はこの屋敷の2階に暮らした。清二とその家族は同じ敷地内の別の家屋に住んでいた。中学生になっていた清二の次男たか雄にとって、祖母操の印象は「背筋が伸びた人」だったという。身につけるものには気を使っていたのだろう(操は当時西武百貨店が独占契約をしていたイヴ・サンローランのドレスを特に好んだ)、凜として毎日庭の手入れをしながらゆっくりと庭を散歩した。
西武グループの迎賓館であると同時に、従業員の宿泊施設、研修施設までもが敷地内にある米荘閣では、様々な集まりがあった。対外的なものとなれば、操が厨房から客の接待まで陣頭指揮を振るった。
その操が亡くなったのは1984年(昭和59)11月17日、76歳だった。康次郎の死からちょうど20年が過ぎていた。
およそ1ヶ月前、操は息子清二の晴れがましい舞台に臨席していた。名前こそ「有楽町」ではあったが、清二の念願だった東京・銀座への進出を果たした「有楽町西武」のオープニングセレモニーがそれだ。イヴ・サンローランのドレスを纏った操は、清二の横で魅力的な笑顔を振りまいた。康次郎亡き後の20年は操にとって、屈辱の20年だったという人がいる。最愛の息子が康次郎の正統な継承者と認められず、屈辱を味わった20年だった、と。だがそうだろうか。操は自らの運命をどこかで達観し、静かに受け入れていたように思えてならない。
操の葬儀は正妻であり、康次郎の実質的な長男である清二の実母の葬儀にしては、地味なものだった。操がバラ園を、その庭を愛した自宅で静かに執り行われた。それは、大々的な葬儀はしないで欲しいという操の遺言にのっとったものだった。操の遺骨は、鎌倉霊園に眠る康次郎の墓石のすぐ傍に収められた。墓石には「堤操」とのみ記された。
前章の最後で触れたように、西武王国が康次郎の妻の喪に服してわずか8日後、今度は義明の実母、石塚恒子が亡くなる。恒子は71歳であった。