1ページ目から読む
4/6ページ目

「邦子には懺悔したい」

「不愉快ですな……。今でも不愉快ですな……」

 清二はつとめて平静を装っていたが、口をついて出たのは、

「邦子の話は今日はこれくらいにしませんか」

ADVERTISEMENT

 という言葉だった。一連のインタビューで、清二が自ら扉を閉ざしたのは初めてのことだった。決然とした怒りと横溢する感情を抑えるような、何とも不思議な目つきだった。

 結局、新たに手がけた事業が軌道に乗らぬまま、97年6月、邦子はパリでこの世を去った。行き詰まった事業を人手に渡さなければならず、その契約書にサインをしたホテルの一室で倒れてしまったのだ。ここでも不思議な兄妹のつながりがあった。

「邦子がパリのその場所から、僕と電話をしているまさにその時に、彼女は倒れたんです」

©iStock.com

 邦子はサインを認したためたホテルから無念の思いで清二に電話をかけた。その会話の最中に脳梗塞で倒れ、運ばれた病院で息を引き取ったのである。邦子が残した子供の面倒を清二がみた一時期もあったが、その子の口から、母を追慕する言葉を聞くことは一度もなかったという。邦子の葬儀にも姿を見せることはなかった。

 邦子は自らの人生の何かをあきらめていた。清二は邦子が日本を去ったことを、どこかで“緩慢な自殺”ではなかったかと思っていたが、それを口には出来なかった。後年、やはり邦子は自ら命を絶つ道を選んだのだと、確信するにいたったというが、私の前では、

「邦子には懺悔したい」

 と短く語るのが、精一杯の言葉だった。父に翻弄され、父の業から逃れんとする葛藤の末の“決断”であったことは間違いない。父の影に怯えながら、幼き日をともに生きた兄と妹だった。

「邦子を思う時、どうしても苦い思いがずっと残ってしまいます」

 最愛の妹を語る時、清二はその苦さを飲み下すような、何とも言えぬ苦渋の表情を浮かべていた。

 母子3人が移り住んだ東京・麻布の「米荘閣」――。こんもりとした森を飲み込むほどの広大な屋敷には操が丹精込めて手入れをしたバラ園があり、大物政治家を招いて「観桜会」を催したほどの桜が植えられていた。清二に見せられた1枚の写真(昭和36年に撮影されたもの)には、この庭園で康次郎と、元首相吉田茂、現役の首相だった池田勇人、そして3年後に首相になる佐藤栄作の4人の姿が写っていた。