二度の結婚と二度の離婚
末弟の猶二が図らずも、
「邦子さんは実質的には、清二さんのお姉さんのような存在だったと思いますね」
と話すように、勝ち気で男勝りの邦子は、康次郎にも物怖じしない“反乱者”だった。
「邦子は僕なんかよりも、数段頭がよかった。僕は、ほら、とても感情的な人間ですが、邦子は明晰だった。加えて僕なんかよりはるかに、情熱的だった気がしますね」
その言葉によれば、清二よりも学力の勝っていた邦子だが、
「女に学問はいらない」
という康次郎の一言で、望んでいた大学進学の途を絶たれてしまう。
まるで父康次郎に当てつけるかのように、邦子の生活は反抗的な色彩を帯びた。二度の結婚と二度の離婚。その間にできた2人の子供(長男、長女)を捨て、1人フランスのパリに旅立つ。28歳の邦子を、留学目的でフランスへ“逃避”させたのは清二だった。
パリへ逃れた邦子は解き放たれたようにその才能を開花させ、自由奔放な生活を満喫する。残された子供らに会うこともなかった。
「西武(百貨店)が垢抜けたデパートになれたのは、邦子のおかげなんですよ。彼女は大活躍をしてくれました。ええ、凄い活躍でしたね、今、思い出しても」
60年(昭和35)に西武百貨店に入社した邦子は、パリのヨーロッパ駐在事務所の責任者になった。
邦子は日本の他の百貨店に先んじて、フランスやイタリアのブランドとの独占契約を結んだ。アルマーニ、エルメス、イヴ・サンローラン、ソニア・リキエル、ミッソーニなど、邦子が口説き落としたブランドは数知れない。
パリの社交界で数々の浮き名を流したが、社交界で築いた人脈は、邦子をカジノビジネスへと誘った。74年、時の大統領ポンピドゥーも後押ししたというカジノが華々しくオープンした。カジノを含んだリゾート開発には清二もグループとして出資し、煌きらびやかなオープニングにはわざわざ日本から駆けつけた。ある意味、邦子の絶頂のときだった。
しかし、その絶頂は邦子の横領容疑での勾留という形で幕を閉じる。帰国した邦子は再起を期し、清二に10億円の融資を依頼するが、邦子と事業の将来を危ぶんだ清二は、それを拒んだ。ところが、話は思わぬ方向に進む。
清二が追加出資を拒否したことを聞きつけた義明が、邦子に接触して清二の肩代わりをするように、10億円を出資したのだった。