「邦子には、本当に可哀想なことをしてしまって……」
「宿題の かたへに蜂の 巣を置きて 楽しめる子よ 明日は十四か」
操の短歌は、時に清二の情念と呼応するような響きを持つ。46歳の操が詠んだ歌には、ただひたむきに一つのことを思い詰める、魂の叫びが木霊した。
「人間に 生れし事の 疑ひも かなしく胸に 解けず寝る夜よ」
操は「大伴道子」の名で、生涯を終えるまでに『静夜』『真澄鏡』など9冊の歌集を世に出した。清二、邦子の幼子二人を抱え、明日さえもが信じられぬような生活、不安、怒り、悲しみ、絶望、願い、祈り……。操はあふれ出る情念を作品として訴えるしかなかった。清二が、康次郎という矛盾に満ちた存在を前にしたときに、文学でしか語るべき言葉がなかったように。
辻井喬の文学的な発露の底に流れていたのは、堤康次郎という“業”に翻弄される家族だった。それは自分であり、最愛の母操であり、同じく妹邦子だった。何度拭おうとしても決して拭えぬ父の“業”。尋常ではない理不尽を強いられた操はその矛盾を受け入れ、清二、邦子を守り通した。
邦子――。この一つ違いの妹の名前を口にする時、清二の表情には何ともいえぬ屈託が影をさす。
十数時間にわたるインタビューの中、97年(平成9年)に急逝した邦子について言及する場面が何度かあり、清二は常にこんな言葉を口にしていた。
「邦子には、本当に可哀想なことをしてしまって……」
清二は、父康次郎が埋葬された鎌倉霊園に、自らも眠ることを強く希望していた。その強い思いの中には、父の側そばに眠る邦子の存在もまた、強く意識されていた。
清二によれば、父康次郎に性格がもっとも近かったのは、邦子だったという。
清二が操に似て、情念を内に秘めるタイプだとすると、邦子は思ったことを口にし、言葉よりも行動を起こすタイプだった。
独裁者である父への反発の仕方も兄妹ではまったく違った。兄の場合、父への反発は清二を文学へ内省させ、それは共産党活動へとつながっていった。
妹は勝ち気な性格であると同時に、清二や義明には終生縁のなかった他者への包容力、気遣いを身に付けていた。家族には専横を貫いた康次郎が、社員からは“大将”と親しみを込めて呼ばれ、経営者よりも人として懐かれていたのは、その包容力と気遣いがあればこそだった。父のそうした“美質”を引き継いだのも邦子だった。