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清二と義明の不思議な縁

 傍目にも痛々しいほど憔悴しきった義明が喪主を務めた恒子の葬儀は、東京プリンスホテルに隣接する増上寺で執り行われた。清二の母、操の葬儀が内輪のそれだったのに対し、恒子の葬儀は盛大だった。

 西武王国の正統な継承者の母の葬儀に、8000人を越える会葬者で会場が溢れた。葬儀場の最前列には田中角栄、赤坂プリンスホテルに派閥事務所を構える福田赳夫、鈴木善幸の元首相3人が座り、その隣にはニューリーダーと呼ばれていた竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一が並んだ。途中で駆けつけたのは現役の首相、中曽根康弘だった。あらためて康次郎の残した有形無形の資産の底力を、まざまざと見せつけるような葬儀であった。

 義明は西武王国を継承したが、恒子の遺骨が康次郎が眠る鎌倉霊園に葬られることは許されなかった。遺骨は故郷、新潟にある恒子の実家の菩提寺に葬られた。奇しくも恒子の倒れた11月23日は、清二の母、操の誕生日でもあった。西武王国を分け合った息子を持つ2人の母親の死は、最後まで不思議な縁が絡み合った。

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 しかし2人の母の死を境に、清二と義明兄弟は求めて交わろうとしなくなった。後のインタビューで操の死について清二に聞いた時の事だ。清二は即座にこんな答えを返してきた。

堤義明さん

「ある意味、これで、これでというのは母の死ですが」

 ここで一旦言葉を切り、その時の決意を再び思い起こすかのように続けた。

「これで何をやっても許される。無茶苦茶をしても、そうね、たとえですが無茶苦茶をやってももう母に迷惑をかけずに済むと思ったもんです」

 堤康次郎という巨大な幹から分かれた太い枝は、それぞれに成長を始めた。それはいつか幹が支えられないほどに太くなり、樹木そのものの命運を左右することになった。清二と義明、2人の因縁を作った父も、それぞれの母もこの世を去ったが、血族ゆえの近親憎悪にも似た感情がお互いの心の底には沈殿していった。康次郎が生んだ“業”と“矛盾”は、死してなお兄弟を呪縛していた。