脚本家・演出家として舞台・ドラマ・映画と幅広く活躍する三谷幸喜が、きょう7月8日、60歳の誕生日を迎えた。
子供の頃から洋画を中心に映画が好きだった三谷は、小学校の時にクリスマス会などで自らの作・演出・主演で芝居を上演し、中高時代には8ミリ映画の制作にも熱中した。日本大学芸術学部に入学すると、放送作家の仕事を始め、1983年には劇団「東京サンシャインボーイズ」を旗揚げする。同劇団はやがて人気劇団に成長し、西村まさ彦や梶原善などの個性派俳優を輩出したが、1994年に30年間の充電期間に入った。
脚本制作は「むしろ制約があるほうが好き」
テレビでは1990~91年、脚本家の1人として参加した深夜ドラマ『やっぱり猫が好き』で注目され、1993年には『振り返れば奴がいる』で初めて単独で連続ドラマも手がけた。『振り返れば~』はヒットしたが、脚本を大幅に書き直されたりカットされたりして、悔しい思いも味わった。その体験は、同年に劇団で上演し、のちには初めて自ら監督を務めて映画化した『ラヂオの時間』(1997年)に反映されている。
もっとも、三谷が悔しかったのは、スタッフが勝手に脚本を変えたり、編集の段階でセリフやシーンをカットされたからで、彼としては事前に伝えてくれさえすれば、むしろそういう制約があるほうが好きだという。たとえば、三谷の出世作で、今年4月に亡くなった田村正和が異色の刑事を演じた人気シリーズ『古畑任三郎』(1994~2008年)ではこんなことがあったと、のちに明かしている。
『古畑任三郎』の台本が手違いで…
それは鈴木保奈美がゲストの回でのこと。まだ決定稿の前の台本が、手違いで田村の手に渡ってしまった。この時点で台本には直さなければならない矛盾点が多々残っていたため、まだ覚えないでほしいと、三谷はスタッフを介して田村に伝える。だが、ときすでに遅し。先方はもう台本を覚えてしまっていた。そこで三谷は、田村のセリフはそのままで、ほかの人のセリフを変えることにする。いかにも荒技だが、本人に言わせると、《最初に思い描いていた作品の青写真とはまったく同じものにはならなかったけど、だいぶ近づけた。パズルに近い。すごく楽しかった》という(※1)。
考えてみれば、三谷が得意とする、俳優をあらかじめ決めて脚本を書く「当て書き」も一種の制約といえる。そもそも『古畑任三郎』というドラマの企画自体が、三谷が子供の頃から大好きだったアメリカのテレビドラマ『刑事コロンボ』を日本のドラマに置き換えるとすればどうなるのか、イメージを膨らませるうちに田村正和がぴったりだと思ったところから生まれた。
当初、田村は刑事物ゆえに断ったが、その後、すでに出来上がっていた脚本を渡され、読んでみたところ、これが面白かった。インテリジェンスがあるし、ユーモアもあり、刑事ドラマというより謎解きを楽しむドラマだと思い、引き受けることにしたという。いざ放送が始まると、古畑は田村のハマり役となる。1999年に第3シリーズがスタートするにあたり、めったに受けない取材に応えた彼は、「田村さんにとって『古畑』は?」との質問に、《いい選択をしたと思っています》と答えている(※2)。同じ記事ではまた、聞き手とこんなやりとりもあった。
《――(中略)古畑の好きなところは?
田村 かわいいところですかね。
――ご自身との共通点は?
田村 かわいいところ(笑)。》
三谷によれば、あの田村正和にこんなことをさせてみたいと、どんどん難易度の高い要求を台本に盛り込んでも、田村は見事に打ち返してきた(※3)。「古畑がストッキングを頭からかぶってタバコを吸う」と書いたときも、番組プロデューサーから「さすがに田村さんにやらせられない!」と言われながら、田村はすんなり演じてくれた。古畑任三郎という奇妙な刑事のキャラクターは、こうした2人のやりとりからつくりあげられたものであった。