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「自宅にSMAPが勢揃い」「レギュラー12本で移動はヘリ」芸人・森脇健児が明かした“バブル期バラエティ”の栄光と挫折

森脇健児インタビュー#1

2021/07/17
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 そもそもの始まりは、テレビ朝日の『アイドル共和国』(1989~91年)。SMAPを中心とするアイドルがいっぱい出演する中で、僕と光GENJIの内海(光司)くんが3代目の司会を務めたんです。SMAPとは、『桜っ子クラブ』(1991~94年)って番組名に変わってからも、そのまま共演して『夢MORI』へと続く。お笑いタレントがジャニーズさんと絡む番組っていうのは、それ以前はほとんどなかったと思います。

「SMAPを平成のドリフターズにする」

〈『ザ・ベストテン』(TBS系)といった歌番組が軒並み終了した1990年代初頭、アイドルはプロモーションの場を失っていた。SMAPが新たなアイドル像を作り上げる必要があったのは、こうした時代背景も大きい〉

SMAP ©文藝春秋

 

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――SMAPは、『夢がMORIMORI』で、ミュージカルコント「音松くん」や、ドラマのパロディに挑戦したことでも注目を浴びました。

森脇 まだフジテレビが河田町にあった頃でしたが、1発目の収録でジャニー喜多川さんが現場にいらっしゃってました。そのとき、番組のスタッフと「SMAPを平成のドリフターズにするんだ」と話されていたのを直接聞いたんです。あの頃は光GENJIや少年隊、忍者などが活躍していて、そのバックでSMAPが踊っていた時代。そこで「次に何か新しいことを」と考えた時、ジャニーさんの中でバラエティっていうのがピタッときたんじゃないですかね。

 SMAPの6人はとても優秀なタレントで、僕はメンバー全員が好きでした。なぜかと言うと、みんなマジメなんです。コントを作る時にもスタッフの言うことを真剣に聞いていて、「アイドルって、こんなマジメなんか」って感心したのを覚えてます。それに6人とも仲がよかった。森口さんもSMAPをすごく受け入れていました。

『夢MORI』では、トークもやったし、スポーツもやったし、コントもやった。その後の仕事を考えると、彼らにとっても原点だったのかもしれませんね。番組を続ける中で、ドラマや映画の仕事も増えてSMAPはどんどん人気者になっていきました。

――当時はバラドル全盛の時代。『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系、1989~92年)の流れを、森口さんが引き継いだイメージもありましたよね。

森脇 それはあったんちゃいますか。当時、彼女がムチャクチャ忙しかったのを覚えてます。森口さんも芸能界でしか生きていけない人でしょ(笑)。幼少の頃から歌手になりたくて、のど自慢の番組に出たりもしてますし。これまでいろいろあったんでしょうけど、それでも芸能界でずっと一生懸命やってますよね。

 SMAPも売り出し中だから忙しかったし、言うてる僕もお陰様で当時はピーク。ムチャクチャ忙しかった。そんな中、『夢MORI』に行くとなぜかホッとしてました。仲間とか家族に会うような気持ちでしたね。