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しばしば日常に侵入してくる異世界としての「大きな世界」

 ドゥニ作品では、人間が法則を把握できない「大きな世界」は、しばしば日常に侵入してくる異世界、もしくは、外(オフワールド)から内へと侵入してくる異物として表現される。

『メッセージ』の異星人、『ボーダーライン』の麻薬カルテル、『複製された男』のドッペルゲンガー、『プリズナーズ』の誘拐犯、『灼熱の魂』の生き別れの父と兄、『静かなる叫び』の銃乱射犯など、侵入してきた異世界が人間(女性であることが多く、フェミニンな視点が常にあることは、ドゥニ作品の特徴でもある)を翻弄する。

『ブレードランナー2049』では、レプリカントと、それを生み出した世界がそれに相当する。その中で「人間(リアル)とは何か?」という、前作から引き継がれたテーマが展開する。

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 リドリー・スコットは『ブレードランナー』でダイナミックに動く画面と、ディテールの積み重ね(スピナーやブラスターなどのガジェット)で世界を構築したが、ドゥニは静的で絵画的な画面(風景と人間の表情)で情感を構築する。

 描かれた世界の後ろ側では、人間には把握できない法則が蠢いている。その静かな恐ろしさが、ドゥニの作品には共通して存在している。

『ブレードランナー2049』より

ライアン・ゴズリングとハリソン・フォードの対比論

 本作で、ライアン・ゴズリング演じるブレードランナーの“K”は、大きな世界の見えない法則に翻弄される小さな存在である。ハリソン・フォードのデッカードが、レイチェルを口説く“攻め”る男だったのに対して、“K”は、徹底的に受け身なキャラクターとして描かれる。彼の恋人は実体のないAIの“ジョイ”。彼女は、ホログラムとして出現するが、決して“K”と交わることはできない。デッカードと“K”の決定的な違いがここにある。そしてこの違いが、本作のテーマと結びつき、「ブレラン」が問いかけてきたことへの解答にも繋がるのだ。人とは何か、レプリカントとは何か、実体と模造の違いを問いかける意味とは何か。その答えを本作は、ひとつ上のレベルで提示する。

『ブレードランナー2049』より

『ブレードランナー』では、記憶(過去)と寿命が、人とレプリカントを隔てる要素だった。記憶が植え付けられた模造品なのかどうかが、ポイントのひとつだった。写真が重要なアイテムとして登場するのもそのためだ。本作でも、30年前に埋葬されたと思われる骨が発見されたところから物語は始まる。それは“K”のアイデンティティを探る過去への旅の様相を呈するが、ある人物との出会いが、“K”の探索行を変えることになる。人間とレプリカントの相違は記憶(過去)にあったが、共通点は、両者が有限の存在、死ぬ存在であるということだ。過去への旅は、未来を探す闘争へと変わる。

 有限であるならば、己の存在を継ぐ者を探さなければならない。未来は誰のためのものなのか、誰が未来を継承するのか。それが本作の真のテーマとして浮上してくる。

 それは『ブレードランナー2049』という「続編」が存在することの意味そのものにも通じる。