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「完璧な新型レプリカント」

 しかし、この映画は不安を一掃してくれた。

 見事な傑作である。 

 前作から35年を経て創られた真っ当な続編。リブートでもクローンでも焼き直しでもない。例えるなら「完璧な新型レプリカント」のような続編だった。「ブレラン」にちりばめられた様々な謎や、私たちが35年間、妄想し、推理した疑問の全てを昇華してくれた。

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 そればかりではない。映画を支える骨格や細部は、まごうかたなき“ブレードランナー2019”でありながら、映画全体としては、ドゥニ・ヴィルヌーヴの新作『ブレードランナー2049』になっている。

『ブレードランナー2049』より

 私が『ブレードランナー』に最初に出会ったのは、P・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だった。私が最初に読んだディック作品でもあり、傑作SFだった。

 主人公はリック・デッカード。火星から地球に脱走してきた人造人間を捕まえることが彼の仕事だ。多くの人間は<最終世界大戦>による放射能汚染で荒廃した地球を捨て、火星に移住している。地球では被曝防止のため、外出時には「鉛製股袋」付きの服を着なければならないし、本物の動物を飼うことは贅沢の一つで、機械の動物で代替している。デッカードが飼っているのも、電気羊だ。人造人間(模造品)と人間の違いは何かというメインテーマは、映画でも踏襲されているが、小説のデッカードは、稼いだ賞金で生計を立てる下級公務員だった。

大学1年の夏、大阪梅田の映画館で観た「ブレラン」

 映画の企画を知ったのは、その数年後だ。監督は『エイリアン』で名を馳せたリドリー・スコット、音楽は『炎のランナー』のヴァンゲリス、SFXは『2001年宇宙の旅』のダグラス・トランブル。このメンツに期待しない映画ファン、SFファンはいない。私も、もちろんそうだった。

 しかし、映画はほとんど世間の話題にならず、公開早々に打ち切られた。大学1年生の夏、空席の目立つ大阪梅田の映画館で、私は一人で「ブレラン」を観た。

「めちゃくちゃで……ぞっとする……混乱そのものだ」

 当時の「ニューヨーク・タイムズ」はそう酷評した。他のメディア、批評家の反応も似たようなものばかりだった。しかし、私はとてつもない衝撃を受けた。テーマは原作に近いが、ハリソン・フォードが演じる主人公デッカードは、賞金稼ぎではなく、捜査官“ブレードランナー”となり、人造人間は“レプリカント”という設定と名称に変わった。ストーリーも語り口も、ハードボイルドでスタイリッシュなものになっていた。何よりもそのビジュアル−−酸性雨が降り、古いものと新しいテクノロジーが同居し、異人種や異文化が混在する2019年のロサンゼルスの世界観にやられてしまったのだ。それは決して「混乱」などではなく、過去と未来、美しいものと醜悪なものが混沌としながらも、活力をみなぎらせている世界だった。こんな未来、こんな場所なら暮らしてみたい、と真剣に考えたものだ。

『ブレードランナー2049』より

「ブレラン」の拡散はソーシャルゲームにも似ている

 しかし、「ブレラン」が見せたビジョンと物語は、当時の大衆には早すぎた。設定や登場人物についての説明を排した、ストイックな作品だったことも、その不評の原因だったのだろう。

 興行的に失敗した「ブレラン」は、しかし、ゆっくりと人々に浸透していく。多くのフォロワーを生んだのは、冒頭で述べたとおりだ。

 それに一役買ったのは、普及し始めたビデオ・パッケージである。

「ブレラン」は、繰り返しの鑑賞に耐え、様々な解釈をもたらす余地をもっていた。ビデオのおかげでカルト映画と化し、世界中のユーザーの頭の中に、無数の「ブレラン」のレプリカントが誕生した。

 すると、今までにない現象が起きる。公開10周年を記念して、リドリー・スコット自身が再編集した「ディレクターズ・カット版」が公開される。さらに「ワークプリント版」「初期劇場公開版」「インターナショナル劇場公開版(完全版とも言われる)」「ファイナル・カット版」という5つのバージョンが誕生した。ユーザーそれぞれの「ブレラン」を、映画本体(オリジナル)が模倣(レプリケーション)するという事態が起きたのだ。

 これは今で言えば、ユーザーの反応や意見を取り入れて展開を変えていくテレビシリーズの方法に近い。SNSのビッグデータをもとに、ルールを改変していくソーシャルゲームにも似ている。

『ブレードランナー2049』より