その一風変わった造りをした7階建ての建物は、いまも残存していた。
無人となって久しいと思われ、看板らしきものも一切ないが、窓越しに確認できる襖や和式のテーブルは、この施設がかつて旅館だったことを物語っている。
振り向けば、作家・石牟礼道子の『苦海浄土』に描かれた雄大な八代海が広がる。九州本土と天草諸島に囲まれたこの海には、お盆の時期から9月にかけ「不知火」のミステリアスな光が浮かぶと言われ、「不知火海」の別名も広く知られている。
34年前の冬、この地で惨劇が起きた。
昭和のプロレス界にまつわるもっとも有名な伝説のひとつとされる「熊本・旅館破壊事件」。その舞台となったのが、目前にある水俣市・湯の児温泉の旅館である。
「あの日のことは忘れんですよ」
そう語るのは、16年ほど前に旅館の経営に区切りをつけ、いまは熊本市内に住む梅村健児さん(70)と里美さん(64)夫妻だ。
「いま思うとですよ。当時、若かった選手の方たちが、プロレスを何とか良くしようとしてね。あんなことが起きたんじゃないかなと思ってます」(里美さん)
選手や関係者によって語り尽くされた感のある旅館破壊事件。だが、「破壊」された旅館側の証言が紹介されたことは、これまでただの一度もない。
いったいあの日、何があったのか――虚飾のない真実が、いま、初めて語られようとしている。(全3回の1回目。#2を読む)
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件の「旅館破壊事件」とは?
元旅館経営者の回想を紹介する前に、昭和のプロレスファンの間では有名な旅館破壊事件の概要と、その逸話が伝説化した経緯について説明しておきたい。
事件は1987年1月23日、熊本県水俣市で起きた。
アントニオ猪木率いる新日本プロレスは同月19日より九州巡業に入り、この日は湯の児温泉の「松の家旅館」が宿泊先となっていた。ちなみに外国人選手は、同じ水俣市内の「ビジネスホテル恋路」、シリーズに帯同するUWFメンバーは、国鉄水俣駅の前にあった「水俣旅館」に宿泊している。
当時の新日本は、若き格闘王・前田日明をリーダーとするUWF勢との抗争を繰り広げていたが、目指すプロレスのスタイル、方向性の違いもあって試合はかみ合わず、「新日本 vs UWF」の対抗路線はファンの支持を得ることができないまま、興行成績は低迷していた。
前田は1984年に新日本プロレスを退団し、格闘路線をより鮮明にした新団体UWFを旗揚げしたものの、わずか1年半で経営に行き詰まり、高田伸彦(現・延彦)や藤原喜明らとともに「UWF軍」として新日本プロレスへの出戻りを余儀なくされた。だが、その後も新日本とUWFの間のわだかまりは解消されない状態が続いていたのである。