──くらもちふさこさん、三原順さん、樹村みのりさんの模写のポイントも、ぜひ教えてください。
笹生 くらもちさんは「蘭丸団シリーズ」を描かれた頃の絵柄を模写したんですが、このシリーズは4年に渡って描かれたんです。すると年によって微妙に目の描き方が違ってて、どの時代を模写すれば……と悩んだりしました。
三原順さんの模写は、同人誌でよくやってるので、どうにか(笑)。細い線で繊細に描き込まれた目が特長です。樹村先生は、目の他に口の描き方にも特長があります。
「記録に残しておくこと」の大事さ
──今回この作品を描いたのは、「かつての貴重な体験を残したかった」という思いもあったからだとお聞きしました。プレッシャーや重責はなかったのでしょうか。また、記録の難しさはどこにあると思われますか。
笹生 公文書を書くわけじゃないので、プレッシャーは特には。
60年以上世の中を見ていると、昔あった事実でも、解釈が徐々に変化していって「あれれ?」と思うこともありますので、記録が埋もれずに広く知られていれば……と思います。また、記録が少ないどころか全く残っていなくて、歯痒い思いをすることもあります。
──笹生さんは漫画家の山下和美さんとともに、憲政の神様と言われた、かつての東京市長・尾崎行雄の旧宅といわれる洋館保全にも尽力されています。そこでも「記録に残しておくこと」の大事さに気がつかれたそうですね。
笹生 旧尾崎邸といわれている洋館の保全活動をしているのですが、明治40年代頃の所有者は誰だったか、公的な記録は見つかっていないんです。1888年(明治21年)の建築当初の記録は残っていて、尾崎三良という男爵が、英国人妻との間に生まれた娘テオドラのために建てたそうです。
そのテオドラが尾崎行雄と結婚した1905年、洋館の所有者は男爵から行雄夫妻へと移ったんじゃないかな、と想像します。なぜなら夫妻と交流のあった伊佐秀雄という人の著作に、尾崎行雄は結婚後「家庭生活が大体洋式に改められた」という、ほんの短い記述があるので。
あの洋館はテオドラ夫人が亡くなってすぐ後の1933年に、尾崎行雄と親交のあった英文学者の所有になり、文学者の子孫には「尾崎行雄から譲られた」と伝わっています。ちなみに男爵は1933年より前の1918年に亡くなっています。
そういう状況から考えても、洋館は尾崎行雄の旧宅だったと言って差し支えないと思います。でも尾崎行雄の住居として公的な記録が残ってるのは品川にあったという日本家屋。この洋館の記録はない。そんな中で公的な記録ではないにせよ、何気ない短い記述を残してくれた人には感謝したいです。
当事者にとっては何気ないことでも、記憶を記録に変えて残しておくことは、後に何かの役に立つこともあるかもしれないと思うんですよ。
こんなことからも、記録は多い方がいいと思っているのです。他の方も貴重なエピソード、面白いエピソード、残してほしいですね。
(取材・構成:相澤洋美)
【後編に続く 「夫の新田たつおは、さっさと描いて人気もある。やる気なくします…」 出産で漫画家を引退した60代の笹生那実が、20歳の自分にかけたい言葉 】