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「人間は“生贄”を選びたがる。それは五輪でも」新直木賞作家・佐藤究が凄惨な暴力描写に込めた思い

『テスカトリポカ』直木賞受賞インタビュー

2021/07/17
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 人間は群れの中から特別なものを選び出して熱狂することで、一時的に情念を昇華したがる。ルネ・ジラールも言ってますけど、賞で選びだされることも生贄なんですよ。たまたま今回は僕が会見したり正賞や副賞をいただく形でよかったですが(笑)。生贄とは共同体の外に出た人間で、外に出て崇められるか、外に出ることで文字通り追放されるかどっちかなんです。

 芸能人が叩かれるパターンもそれに似ている。最初は外に出て崇められているけれど、ちょっとしたミスで追放に切り替えられる。磔になったキリストは両面を持っていて、スーパースターでもあり、罪びとでもあったんですよね。

『テスカトリポカ』で問題にしていることが、五輪でも

――分身同士の中から生贄を選んで、時に崇め、時に貶めてきたのが人間の歴史ともいえそうです。

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佐藤 ひとつの犠牲の上に何かを打ち立てるという、『テスカトリポカ』で問題にしていることが、図らずも今、オリンピックという形でも再現されているなと思って。昨日のスピーチの場所が帝国ホテルだというのも個人的には運命的なものを感じました。あの辺りはGHQの本部があった象徴的な場所ですから。

 

 オリンピックって、本当はイベントとして盛り上がるはずだったのに、こんなことになりましたよね。民を犠牲にして、世界一のスポーツの巨大な祭典をやろうとしている。それは生贄を捧げるアステカ王国の儀式だったり、アステカのピラミッドをつぶして上に教会を建てたスペイン人のコンキスタドールたちのあり方と同じだと感じます。パンデミックで本質が浮き彫りになったんですよ。

――いろんな形で生贄はある。本作で現代の生贄のあり方として描かれるのが臓器売買です。メキシコの元麻薬密売人のバルミロが、日本に来て心臓売買を企てる。彼のビジネスに巻き込まれるのが天涯孤独な少年コシモです。ただ金儲けのために人間をパーツ化して売買するバルミロと、そんな資本主義リアリズム的な価値観の外にいるコシモが対照的です。

佐藤 バルミロはアステカの神様を崇めていると同時に、今の僕らの社会が使っている最新型の資本主義リアリズムをインストールしているんですよ。それに従って動いている。過酷な暴力だって趣味でやっているのではなく、システムに従っているだけなんです。一方、コシモは資本主義リアリズムがインストールされていない。

 僕らはなんの疑問もなく「私」という言葉を主体として使っていますよね。社会には「私」と「私」がいっぱいいて、自己と他者が毎日バトルしている。でもコシモの感覚では、「時間」というものが主体なんです。

 もしかしたら僕らは子どもの頃、物心つく前はその感覚があったのかもしれない。今こうして話している時間も、本当は時間のほうが僕らに起きることを経験していて、たとえば僕らが風を感じるんじゃなくて、風のほうが僕らを通して世界を経験しているという。

 コシモはそういう感覚を持っているんです。資本主義リアリズムの呪いを外すためには、そういう感覚を持つことは大きいかなと思うんです。

 本を読んでいる経験ってそれに近くないですか? 「私」がいて、それが本を読んでいるというより、本を読んでいるこの時間自体が自分の中を流れているというか。逆もあると思うんですよね。本が自分を観察しているというか、通っていく感じ。