――政府がプロ野球などの外国人選手の家族についても入国を認めることを関係団体に伝え、8月上旬から適用していたことが、関係者への取材で分かった。
8月20日の夜、飛び込んできたニュースだ。
これは良かった。と思う反面、あと少し早ければ……そう思ったプロ野球ファンは多いだろう。
ライオンズファンにとっても、傷は癒えていない。7月26日、エルネスト・メヒア、退団。
新型コロナウイルス感染拡大の影響で外国人の新規入国は全面停止中。家族の入国制限が続いていた中でのニュースだった。
「いま世界中がとても困難な時期であり、世界の反対側から日本に来た私にとって、家族がいないことは本当に大変でした」
「家族を優先しなければならないということをお詫び申しあげます」
退団時に発表されたメヒアのコメントにも、無念が滲む。家族のこととあっては受け入れざるを得ないものの、冒頭のニュースを見た今、尚更、もう少し早ければ状況は変わっていたのでは……と、言いようのない思いが募る。
思えばメヒアの活躍は衝撃的だった。2014年シーズン途中に入団すると、初出場となった5月15日の日本ハム戦(札幌ドーム)では初打席で初ホームラン。このシーズンは106試合の出場ながら、34本のホームランを放って本塁打王を中村剛也と分け合った。
近年は代打での出場が多かったものの、ここぞという場面での一打が印象に残る。
しかし、メヒアの魅力はプレイヤーとしての成績だけでは語れない。人間性でもファンを増やし、魅了し続けた。
「文化放送ライオンズナイター」のメンバーにもメヒアをこよなく愛する人がいる。2018~20年シーズンにスタジオを担当した粕谷紘世さんだ。
彼女はなぜメヒアのファンになったのか。彼女のエピソードを通して、今一度メヒアの魅力に触れたい。
チームが苦しい時期に心に希望をもたらしたのが、メヒアの存在だった
そもそも、粕谷さんがライオンズナイターのスタジオを担当するようになったきっかけには、一本の動画があった。
――ジャージ姿の大きな男性が車から降りる。男性のもとに小さな子供が駆け寄る。その女の子は手に持った大きな色紙を恐る恐る渡す。男性は笑顔でサインをする。場所は西武第二球場の駐車場。
幼き日の粕谷さんと、清原和博選手だ。
聞けば彼女は、松崎しげるの歌声がエンドレスで流れ続ける街・所沢で生まれ育ち、ライオンズファン(特に清原ファン)の両親のもと、「この世で一番かっこいい人は清原さんだぞ」と教え込まれて育ったその筋のエリートだ。野球少年の兄2人と、家族5人でライオンズの応援に行くことが休日の恒例行事で、幼い頃から「自然と、当たり前にライオンズを応援していました」と言う。残っているその動画は、3歳の頃、オフに自主トレを見に行ったときのものだそうだ。
生まれながらにして、エリート街道をひた走っている。
そんな彼女が文化放送の報道ニュースアナウンサーとして勤務していた折、隠しきれないライオンズ熱に触れた報道スタッフが、スポーツに推薦してくれたというわけだ。先の動画を見て深く感動した部長が「わたくし、生まれも育ちも所沢。姓は粕谷、名は紘世……」と寅さん風の口上を唱えていたのは懐かしい話だ。
その彼女が、メヒアのファンになったのは2014年。来日してすぐのことだった。
「複数の選手の衝撃的な移籍があったりと、チームが苦しい時期でした」
2012年には中島裕之(現・宏之)が海の向こうへ渡った。13年には片岡治大、涌井秀章がチームを去り、さらにサファテ、ヘルマンも退団。渡辺久信監督も退任。14年には伊原春樹氏が監督に就任するも、成績不振などでシーズン開幕から2ヶ月あまりで休養。そんな時に入団し、ファンの心に希望をもたらしたのが、メヒアの存在だった。
「苦しい時期に現れたメヒア選手の『きっとなんとかしてくれる!』という頼もしいプレーにワクワクし、お立ち台パフォーマンスに魅了され、気が付いたときにはもうメヒア選手のタオルを買って掲げていました」
奇しくも、それがちょうど社会人になったタイミングと重なった。足が遠のきそうなところ、「また球場に行きたい!」と思わせてくれたのもメヒアだったそうだ。