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岩井俊二「光の見方のようなものが、自分と似ていると思った」 画家・三重野慶との出会いから小説『零の晩夏』が生まれるまで

岩井俊二さん『零の晩夏』インタビュー#1

2021/07/29
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あまり考え込まないことによって広がる世界があるわけです

 思うに僕らは「分解世代」と言えるかもしれない。小さいころから僕は、おもちゃでも何でもすぐに分解したがって、小学1年生のときに父からもらった誕生日プレゼントは、工具キットでした。父は車のスクラップ部品もいっしょに持ってきて、これバラバラにしてみていいぞと渡してくれました。

 僕のような昭和の子どもたちに、現在からタイムスリップしてスマホを渡したら、すぐバラバラに分解しちゃうんじゃないでしょうか。いまの子はそんなことしないでしょう。中身がどうなっているか知ろうとする欲求は僕らよりは希薄なのかもしれません。

 そんな分解好きな昭和の子が、高校時代に油彩画と出会い、新たな工具キットを手に入れてしまいました。

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©文藝春秋

 絵の原理は単純です。「明るさ」「色の濃さ」「色の種類」、目に映るものはすべてこの3つに分解・還元して捉えることができる。たとえば、りんごを描くとき、頭で「これはりんごだ」と考えてしまうと、そのとたん正確な描写ができなくなります。頭のなかにあらかじめあるりんごのイメージに引っ張られて、目の前のりんごをあるがままに見れなくなってしまうんです。人の意識が入ると、かえっていろんなものが歪んでしまう。

 ありのままりんごを写すには、目の前にあるりんごをりんごと思わずに、そこにある光と影だけに目を凝らさなければいけない。人間臭い思いや考えを排して、頭のなかを、ただ光信号を処理するデジタルデバイス化することが要求される。そういうメソッドが絵画の世界にはあるわけです。

 カメラの眼はその点、徹底されていますよね。機械だから感情を持つことなく、目の前のものをひたすら公平に再現することができる。

 つまり人間、あまり考え込まないことによって広がる世界があるわけです。考えに考えて、自我でがんじがらめになってつくったものは、人の想定範囲内のものになってしまう。そこに神が宿るようなことは起こらないというか。

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