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日本代表として五輪に出場してやろうと隅田川でボートを漕いだあの日…歴史探偵・半藤一利が語る「日の丸」への思い

『歴史探偵 昭和の教え』より #2

2021/08/06

source : 文春新書

genre : ライフ, 読書, ライフスタイル, 社会, 歴史

note

「日の丸」の起源

 対米英戦争の忌わしい記憶がどうしてもよみがえるために、「日の丸」を国旗とすることに強い抵抗を感じる年寄りがいまもなお多いようである。

 わたくしは、といえば、終戦のあと惨たる焼け野原からの再建のための猛烈な努力の数年間は、「日の丸」を仰ぎ見る気にもなれなかった。でも、6年余の占領期がすぎて戦後日本が独立したころから、そうでもなくなった。“戦犯国”の汚名がとれて戦後初めてオリンピックに日本が出場を許されたとき、日本代表として出場してやろうと隅田川でボートを漕いでいたことが、その証しといえようか。なにしろユニフォームの胸に「日の丸」がつけたくて一所懸命であったのである。

 そんな昔話はともかくとして、国旗のない国は世界にないのであるから、と、議論するためではなく、サッカーW杯の放映を眺めつつ軽い気持で「日の丸」について書くことにする。

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 そもそも「日の丸」の起源は、『続日本紀(しょくにほんき)』(797年)に遡(さかのぼ)るらしい。されど、この旗がごく一般的になったのは南北朝時代(14世紀)、というのが定説になっている。これがさらに戦国末期(16世紀末)には、天皇の権威をいただいて天下統一をめざす武将たちが競って、おのおの勝手につくった「日の丸」を用いだした。

 やがて徳川家康が天下統一。三代将軍家光の鎖国時代(1633~39年)となり、私船と区別するために、以後は幕府の公用船だけが「日の丸」を掲げることとなった。これが外国に向っての国旗らしい旗印となった最初という。ところが、嘉永6年の黒船来航(1853年)で事情が一変してしまった。アメリカに遅れじとしきりに港々にやってくる外国船と区別するために、日本国の船の総目印(つまり国の旗)をきめることが緊要となったのである。

半藤一利氏 ©️文藝春秋

 こうして翌7年の7月9日、「日本総船印(ふなじるし)は白地日の丸幟(のぼり)相用い候よう」と、幕府が各藩に布告したのである。つまりこれが正式に国旗ができたとき。さっそく薩摩藩の船が「日の丸」を高高と最尖端に掲げた。もっとも以前から薩摩船は自藩の旗印のごとく「日の丸」を掲げていたともいう。

 ざっと「日の丸」にはそんな歴史がある。ま、知っておいて損はなかろう。(2018年9月)

【前編を読む】「お礼を言われる筋はないよ」半藤一利が『日本のいちばん長い日』刊行後に受けた“鋭すぎる指摘”とは

歴史探偵 昭和の教え (文春新書)

半藤 一利

文藝春秋

2021年7月19日 発売

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日本代表として五輪に出場してやろうと隅田川でボートを漕いだあの日…歴史探偵・半藤一利が語る「日の丸」への思い

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