2021年1月12日、惜しまれつつも90歳で亡くなった半藤一利氏。昭和史に関する硬派なノンフィクションから、軽妙洒脱なエッセイまで、数多くの著作を遺した氏の足跡を振り返る――
ここでは、半藤一利氏の人気エッセイをまとめた『歴史探偵 昭和の教え』(文春新書)より一部を抜粋。“歴史探偵”が語る「日の丸」への思い、歴史について紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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漢字の国の名
先日、ある大学生に尋ねられた。
「どうしてアメリカを米(こめ)の国、フランスを仏(ほとけ)の国というんでしょうか?」
一瞬、私をオチョクッテいるのかと疑ったが、考え直して答えた。
「昔は、といっても戦前は、外国の国名や都市名を漢字で表記することが多かったんだな。アメリカは亜米利加、フランスは仏蘭西と漢字を当てた。パリは巴里、ニューヨークは紐育といった具合だったな」
結果として何人かの大学生を相手に長々と講釈する破目と相成った。幕末の佐久間象山や勝海舟は蘭語を学んだというが、つまり和蘭、オランダ語だ。明治の日英同盟はイギリスを英吉利としていたからで、そしてまた日露戦争、これは当時は帝政ロシアだが、露西亜と書いた。戦争中の日独伊三国同盟は独逸(ドイツ)と伊太利(イタリア)が相手なのである。
以下──愛蘭(アイルランド)、亜爾然丁(アルゼンチン)、印度(インド)、埃及(エジプト)、加奈陀(カナダ)、瑞西(スイス)、瑞典(スウェーデン)、西班牙(スペイン)、智利(チリ)、丁抹(デンマーク)、土耳古(トルコ)、洪牙利(ハンガリー)、比律賓(フィリピン)、芬蘭(フィンランド)、伯剌西爾(ブラジル)、波蘭(ポーランド)、墨西哥(メキシコ)。そして、その昔には日葡(にっぽ)辞書というのが貴重であった。すなわち葡萄牙、ポルトガル語の辞典なり。
と、いまや消えなんとしている知恵のありったけを絞って、滔々とやったのである。が、大学生諸公はヘエーと一応は感心した風を示すが、アナクロ爺さんをそれ以上相手にしてはくれなかった。
覚えておいても損はないのであるがと、すこぶる残念に思えた。
それにつけても、フランスが仏で、ドイツが独には、物足りなさを改めて感じた。佛と獨でなくては、どうもその国らしくない。文藝春秋の藝(げい)を芸(うん)とするのはいかん、と前にも書いたが、戦後の漢字改革にもう無駄な抵抗をするつもりはないものの、イヤな感じはまたしても残った。
昭和21年11月16日、当用漢字1850字が発表されたその日に、「漢字には背景に大いなる文化があるのにな」と中学生ながら私は呟いた。そのことをまた思いだした。(2014年12月)