昭和史研究の第一人者として数多くの著作を残してきた半藤一利氏は、かつて、作家・阿川弘之氏から歴史ものを書く時の責任について説かれた経験があるという。その際にかけられた言葉とは、いったいどのようなものだったのだろうか。
ここでは半藤一利氏が歴史、昭和史、ことばなどについて綴った人気エッセイ『歴史探偵 昭和の教え』(文春新書)の一部を抜粋。阿川弘之氏との交流を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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責任を背負って史実を書いた阿川弘之さん
私と阿川さんとのお付き合いは、50年ほどになります。お互いに海軍の話になると尽きませんでした。それなら、泊りがけで語り尽くそうということで、一緒に平成15年に『日本海軍、錨揚ゲ!』という対談本を出したこともありました。この時は、箱根の富士屋ホテルに缶詰めになり、2泊3日で合計15時間ばかり海軍の話をしました。
うちのカミさんと阿川さんの奥様も同席していたのですが、私と阿川さんがあまりにも盛り上がっているのに呆れて、「ほっといて、お散歩にでも行きましょう」と二人で出ていってしまうほどでした。
思い出すのは食事の時間のことです。健啖(けんたん)家とはこの人のことをさすんだな、とうならされたものです。娘の佐和子さんが、亡くなる直前にもローストビーフを3枚くらい食べたと、書いておられましたが、富士屋ホテルでも、相当の品数でしたのに、出されたものはペロリとたいらげておられました。
さすがの私も心配して「そんなに食べていいんですか」と聞きますと「君、エネルギーは食からくるんだよ」とおっしゃる。「でも、もうエネルギーなんていらないでしょう」と言ったら「頭だってエネルギーを使うんだ」。
さらに私が「頭だってあまり使わんでしょう」と続けたら、「文春の巻頭随筆を書くのにもずいぶん使うんだよ」と返してくださる。万事が万事この調子でして、何をお話していても楽しい方でした。
阿川文学の根底にある言葉への厳しさ
阿川さんといえば、言葉づかいには滅法きびしい方でした。方々で痛い目にあった被害者がいるのを、お読みになった読者も多いことでしょう。かくいう私もその一人です。ある原稿で、「駆逐艦雪風艦長」と書いたのですが、「それは雪風駆逐艦長と書くものです」と𠮟られてしまった。旧海軍では、舳先(へさき)に菊の御紋章のある戦艦や空母などの軍艦では「艦長」と呼びますが、紋章のない駆逐艦の場合は「長」と呼称していたからです。
「おっしゃることが正しいのはわかりますが、読者の中には知らない方もいますから、こう書いたんです」と言ったのですが、「いけません」と取り付く島もないのです。
そのような言葉への厳しさが、阿川文学の根底にあるのだな、と𠮟られながらも随分感心しました。
海軍用語だけでなく、雑談のときの言葉づかいもずいぶん直されたものです。
たとえば、「とんでもございません」と口にすれば、「そういう日本語はない。『とんでもないことでございます』だよ」と、ピシャリ。