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 何々を「立ち上げる」というと、自動詞の「立つ」と他動詞の「上げる」をごちゃまぜにした日本語はない、とこれも許していただけない。

「祖国というのは国語である」という言葉が非常に好きで、日本の根底にあるのは、日本語だと信念をもっておられたからこそ、正確な日本語にこだわっておられたのでしょう。

 かといって私の話す下町弁には、お小言を言われたことはありませんでした。「僕には使えないけれど、半藤君の言葉づかいを聞いていると気持ちいいよ」と褒めてくださって、恐縮しきりだったのを思い出します。

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 文章を書く段になると阿川さんは、極力自分を消してお書きになっておられます。その真髄をいつか知りたいと思っていたところ、ある時、これぞという文章を読むことができました。自分で紹介するのは何やら面はゆいですが、私の書いた『それからの海舟』の解説で、阿川さんは、次のような一文を書いて下さいました。

「記述が淡々としているので読みやすく味わいが深く……」

半藤一利氏 ©️文藝春秋

大正の文壇の匂いを直接受け継いでいた

 これを読んだ時に、私の文章の過分な褒め言葉だな、と思いました。しかしすぐに、阿川さんは私の文章を褒めてくださったというより、ご自分が理想としている文章について書いておられるのだ、と思い至ったのです。

『山本五十六』を執筆するまでの阿川さんは、「第三の新人」と呼ばれる作家たちのひとりとして、活躍していました。ただし、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作といった作家たちのなかで、阿川さんは少し雰囲気が違うなと密かに思っていました。志賀直哉さんに私淑したこともあり、大正の文壇の匂いを直接受け継いでおられたからかもしれません。

阿川弘之氏 ©文藝春秋

『春の城』や『雲の墓標』といった初期の小説では、後に知られる作品とは違い、戦時下の若者たちの苦悩やあきらめの中で懸命に生きようとする姿に重きを置いていました。その筆づかいの柔軟さや伸びやかさ、淡々とした記述が、全編を通読すると強烈な戦争反対の作品になっていました。

 私は『雲の墓標』を初めて読んだ時、ここには「人はそのために死ぬべき価値をどうしたらとらえることができるか」というきびしい命題にたいする苦悩と答えが、見事に描かれていると感動しました。絶体絶命の状況に置かれた若者たちの霊が、この物語によって浮かばれるだろうし、自分も歴史を書く時には、兵士を一人の人間として描いたその優しい眼差しを持っていたい、と思ったものです。