日常で使う様々な言い回し。話していて、書いていて、ふとした瞬間に「あれ、これで言い方あっていたっけ……?」と疑念がよぎることはないだろうか。

 そんな日常で直面する「微妙におかしな日本語」について、『日本国語大辞典』の元編集長で、辞書一筋37年の神永曉氏が解説した『微妙におかしな日本語――ことばの結びつきの正解・不正解』より、一部を抜粋して引用する。

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 的確に要点をとらえることを「的を射る」と言うが、これを「的を得る」と言う人がいる。国語辞典では、「的を射る」が正しく、「的を得る」は「当を得る」との混同で誤用とするものが多いのだが、私自身は「的を得る」が本当に誤用なのかという疑問を持っている。

 と言うのも、「的を得る」の例がけっこう見つかっているからである。『日本国語大辞典』でも、高橋和巳の小説『白く塗りたる墓』(1970年)の例が引用されている。

「よし子の質問は実は的をえていた」

 というものである。

 国立国語研究所のコーパスを見ても、「的を射る」は61例であるが、「的を得る」は17例である。数が増えれば認めるというわけではないのだが。
※編集部注・コーパス:新聞、雑誌、本などに書かれている言葉を集めたデータベース

 国会会議録で検索すると「的を得る」は228件ヒットする。「的を射る」が616件なので、まだまだ「的を射る」が多いとは言えるが、「的を射る」は昭和(22年~63年)と平成・令和との使用状況を見ると、ほぼ半々なのに対して、「的を得る」は77%が平成になってからのものである。当然のことながら「的を得る」は新しい言い方ではあるが、口頭語でかなり広まっているということかもしれない。

「的を得る」と似たようなことばに「正鵠を得る」がある。要点、核心をついているという意味である。この語は漢籍の『礼記』に見える「正鵠を失わず」からきているのだが、「正鵠」とは的の真ん中にある黒点の意で、要所・急所の意となる。「失わず」だから、後に意味の同じ「得る」となったわけである。

「的を得る」が「的を射る」と「当を得る」との混同ではなく、「正鵠を得る」から生じた言い方だとすると、「正鵠」は的の中心なのだから、その部分が「的」という語に交代しても不自然ではない気がする。

「的を得る」は誤用だと考えている人は多いであろうし、私もそのような考え方にあえて異を唱えるつもりはない。だから、『三省堂国語辞典』の第7版で他の小型の国語辞典に先駆けて「的を得る」を子見出しとして立項したときは正直驚いた。いかにも『三国』らしい一つの見識だと思うが、他の辞典すべてに追随してもらいたいとは思わない。ただ、これをきっかけに「的を得る」をどのように考えるのか、各辞典で検討に入ってもらいたいとは思うのである。