アベベは体が不自由になって以来、家族や知人に弱音を吐くこともあったという。ある知人は、イギリスから帰国した彼が《いまこうして車イスに乗っている自分は、もうかつてのアベベではなくて、別な身体のきかないアベベなんだって、何度も自分に言い聞かせていた》と語ったと証言している(山田一廣『アベベを覚えてますか』)。一方で、フランスの旧知の新聞記者による取材では、《身体が思いどおりにならないというのは向き合うのも辛い試練で、もし神様を信じられなければ、私は生きていく気力さえもつことはできなかったはずです。一日一日がまぎれもない苦闘の連続で、これに比べればマラソンなど足もとにも及ばない。声援を送ってくれる観客もおらず、手にする栄誉もないまま私はいまもその試練と戦っています》と、苦しくてもなお戦おうとする姿勢を見せた(ティム・ジューダ『アベベ・ビキラ』)。
アベベの登場以降、熾烈さを増した記録争い
このあと、アベベは1972年のミュンヘン五輪には貴賓として招待され、スタジアムに現れると観衆は総立ちで割れんばかりの拍手で迎えた。だが、それから1年後、1973年10月25日に彼は脳内出血で亡くなる。事故を遠因とする合併症だとされる。まだ41歳の若さであった。それから1年足らずして、軍のクーデターによりハイレ・セラシエ1世は廃位に追い込まれ、帝政は終わる。エチオピアはその後、深刻な飢餓をもたらした独裁政権を経て、90年代には内戦の末に新政権が樹立され、現在はエチオピア連邦民主共和国となっている。
アベベの登場以降、マラソンの記録争いは熾烈さを増した。1964年の東京五輪直前には、わずかのあいだに何度となく記録が更新されていた。アベベが東京五輪で記録した記録も、わずか8ヵ月後、イギリスのウィンザー・マラソンを2時間12分で走った重松森雄によってあっさり破られている。
エチオピアやケニアといったアフリカ諸国からは続々と俊足のランナーが登場し、現在もそれは続いている。現在の国際陸上競技連盟公認の世界記録保持者である、2018年のベルリンマラソンで2時間1分39秒を記録したエリウド・キプチョゲもまたケニアの選手である。キプチョゲは2019年には、人類未踏の2時間切りを目的にしたウィーンでの非公認レースで見事チャレンジを成功させている(記録は1時間59分40秒2)。2016年のリオデジャネイロ五輪の金メダリストでもある彼は、今回の東京五輪でアベベと同じく連覇を狙う。
【参考文献】
・山田一廣『アベベを覚えてますか』(ちくま文庫、1992年)
・ティム・ジューダ『アベベ・ビキラ 「裸足の哲人」の栄光と悲劇の生涯』(秋山勝訳、草思社文庫、2019年)
・向田邦子「Only Yesterday 記憶の中の瞬間 アベベは、汗もかかず、考えごとをする目の色で走っていた」(『Number』1980年6月20日号)