アベベ・ビキラの故郷は、セム系アムハラ族と呼ばれるエチオピアの代表的部族の住む村で、両親は小作農を営んでいた。彼の生まれた1932年8月7日にはアメリカのロサンゼルスでオリンピックが開催中で、まさにその日に行われたマラソンでアルゼンチンのファン・カルロス・サバラが優勝している。
エチオピア皇帝の護衛兵だった
アベベが3歳となった1935年、エチオピアはファシスト政権下のイタリアの侵略により全土を占領された。だが、エチオピアのイタリア軍は第二次世界大戦中の1941年にイギリスの攻撃により敗退し、エチオピアは再独立を果たす。のちにローマ五輪でマラソンのゴール地点となったベネチア宮殿は、かつてのファシスト政権の指導者ムッソリーニがエチオピア侵攻を宣言した場所であった。そんな因縁のある場所でエチオピア皇帝の護衛兵であるアベベが勝利をもたらしたことは、歴史的にも大きな意味を持った。
アベベが親衛隊に入ったのは19歳のときである。貧しい小作人の息子だった彼は、親衛隊に10年いれば40ヘクタールの土地がもらえると知り、志願したという。親衛隊では通常の訓練である兵器や車輛の扱いのほかに、スポーツも訓練の一環として取り入れられていた。そこでランニングを始めた彼は、1957年、国の陸海空軍と親衛隊による4軍陸上競技大会のマラソンで優勝し、ローマ五輪の強化選手に選ばれる。このとき専任となったスウェーデン人コーチ、オンニ・ニスカネンの指導のもとでめきめきと頭角を現し、見事に結果を出すことになる。国の英雄となった彼は、ローマ五輪のあと兵長に昇進する。
オリンピックに忍び寄る商業主義の影
アベベはローマ五輪のあとも、いくつかのレースを裸足で走っている。だが、1961年6月の毎日マラソン(現・びわ湖毎日マラソン)では初めてシューズを履いてレースにのぞんだ。このとき、シューズを提供したのはオニツカ(現・アシックス)社長の鬼塚喜八郎である。鬼塚は日本の道路の舗装はまだ貧弱だから裸足で走るのは危険だと、シューズの必要性を説いた。アベベは頑なに拒んだが、コーチのニスカネンが鬼塚の言うことにたぶん間違いはないと説得して、ようやく受け入れたという。
鬼塚は東京五輪では自社の練習着をアベベに着てもらうつもりでいた。だが、このときはニスカネンに断られてしまう。アベベがすでにドイツのプーマと契約を結んでいたからだ。鬼塚はそれを知って、プーマに金を積まれたのではないかと勘繰ったという。当時のオリンピックではアマチュアリズムの原則を守るため、選手のスポンサー契約も厳しく制限されていたが、それでも商業主義の影はじわじわと忍び寄っていたようだ。
東京五輪ではアベベの淡々と走る姿が、多くの日本人に感銘を与えた。当時、駆け出しの脚本家だった向田邦子は後年、《アベベは、汗もかかず、まるで坐って考えごとでもしているような目の色で走っていった》と述懐している(『Number』1980年6月20日号)。ちなみに向田がアベベの走る姿を見たのは、レース中ではなく、彼が都内でトレーニングをしているときだった。どうしてもアベベと並んで走ってみたいと思った向田は、ツテを頼って練習コースを探し出した。そして弟の車のなかで待ち伏せしているとアベベが現れ、気づけば並走していたという。もっとも、彼女は車に乗りながら坐っていたのだが、気持ちは並んで走っていたのだとか。