コーチのニスカネンに言わせると、アベベはけっして生まれついての才能に恵まれていたわけではなかった。トレーニングを始めたころには死に物狂いになって走っていたという。それをニスカネンはリラックスして走ることを強調し、「長距離走では体力の消耗を最小限に抑えつつ、常に走ることに意識を集中させなくてはならない」と教え込んだ。「走る哲人」とも呼ばれたアベベの走りは、ここから培われたものなのだろう。
足の故障、対向車との衝突事故
そんなアベベも、東京五輪で連覇を果たして帰国してからは、周囲の人々に対し尊大に振る舞うようになっていたという。その傾向は、ほかの選手が台頭してきて、いつか追い越されるのではないかと焦りを募らせるにともない、ますます強まった。彼の予感は次の1968年のメキシコ五輪で的中する。このとき、アベベと長らく一緒に練習を積んできたマモ・ウォルデが優勝する一方、彼自身は足の故障によりレース途中で棄権を余儀なくされたのだ。
さらに追い打ちをかけるように、翌1969年3月、愛車フォルクスワーゲンを運転中に対向車と衝突事故を起こし、大けがを負った。これによりアベベは下半身が麻痺し、一生、車椅子で生活を送ることになる。
それでも彼は、皇帝の命令により運ばれたイギリス・ロンドン近郊のストーク・マンデビル病院で懸命にリハビリに励んだ。事故から4ヵ月後、当地で毎年開催されていた身障者のためのスポーツ大会、ストーク・マンデビル競技大会(第18回)でアーチェリーと車椅子競走に出場している。同大会には翌年の第19回にもエチオピア選手団の総監督として参加、自ら卓球と車椅子競走で活躍した。さらに1971年にノルウェーのバイトストーレンで開かれた身障者スポーツ週間では犬ぞりレースに挑み、見事優勝を果たしている。なお、ストーク・マンデビル競技大会はこの少し前から、1960年のローマ、1964年の東京などイギリス国外でも開催され、現在のパラリンピックへと発展していった。