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小学2年で、山梨県から東京に1人で通う

「たわいのない話で笑い合っているだけですけど、でも彼女の常に前を向いて挑戦し続ける姿にいつも刺激を貰っています。私なんてまだまだだな…って」

 だが、スポットライトを浴びた期間はそう長くは続かなかった。快進撃を続ける平野に中国も黙っていない。平野の打ち筋やクセを“コピー”したダミー4人を育成し、徹底して平野対策を講じてきた。

 途端に勝利から遠ざかり、自分の卓球に迷いが生じ始めたのである。信頼している中国人コーチが帰国したことも平野を混乱させた。平野から笑顔が消えた。

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 そして19年、東京五輪シングルスの代表選考では、最後に石川に逆転を許し、強化本部推薦の3番手で切符を手にした。自分が望んだ形ではなかったものの、コロナ禍で自分を見つめ直す期間を手にし、五輪に出場できる喜びを再認識したのだ。

©JMPA

 平野が五輪を目指したのは、なんと小学1年生の時という。

「その頃はまだ、オリンピックはどんなものか分からなかったけど、周りから『将来はオリンピック選手かな』と盛んに言われたので、オリンピックはすごいところなんだと認識していたんだと思います」

 小学2年から自宅がある山梨県中央市から東京の大学に練習のため1人で通った。また3年になると片道5時間かけて大阪のミキハウスで出げいこを始めた。小学低学年の女の子が1人で電車を乗り継いで通えるものなのか。平野はケラケラ笑いながら言った。

「最初だけ母がついてきて電車の乗り方を教えてもらったけど、2回目以降はずっと1人。怖いとか不安な気持ちは全くなかった。むしろ、高校生や大学生と練習できるのが嬉しくて電車内でワクワクしていました」