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《最後は男泣き》柔道監督・井上康生(43)が“史上最多5つの金”に日本を導いた“3000の日と夜”「ロンドンとリオと東京で流した3つの涙」

2021/08/14
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全身を震わせ「選手たちに申し訳ないことをした」と号泣

 年功序列で縦社会の柔道界に遠慮する余り、組織改革を進言できなかった自分を悔いた。男女7階級が終わった8月3日、ロンドン市内の中華料理店で開かれた日本チームの打ち上げで井上コーチは周囲が驚くほど号泣した。崩れ落ちそうになる大きな体を抱きかかえた人物によると、大粒の涙を流しながら、

「選手たちに申し訳ないことをした……。本当に申し訳ない……」

 と全身を震わせ、嗚咽を漏らした。つらい現実にもらい泣きをした関係者もいたという。

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「2期8年」という通常任期をそのまま履行すれば篠原信一監督の16年リオデジャネイロ五輪までの続投が既定路線だったが、日本柔道に対する大きな危機感から人心一新を求める声は内外から高まっていた。同監督は秋に退任を自ら選択。そして12年11月5日、34歳の若さで井上が監督に大抜擢された。

現役時代は苦しいことの方が多かった井上監督

 宮崎県で3人兄弟の末っ子に生まれた井上監督は警察官の父・明さんの教えにより、少年時代から柔道に励んだ。小中に続いて神奈川・東海大相模高で全国制覇。りりしい表情に求道者のようなたたずまい、相手を高々と跳ねあげる内股には華があった。男子100キロ級で金メダルに輝いた2000年シドニー五輪ではその柔道スタイルが称賛され、正真正銘のスターになる。表彰台の頂点で前年6月に急逝した母・かず子さんの遺影を天に向かって掲げた光景は、五輪史に残る感動的な名場面だろう。

 栄光に満ちた現役時代と思われがちだが、井上監督は苦しいことの方が多かった。05年に軸となる釣り手側の右大胸筋断裂を負い、1階級上げた100キロ超級では国際大会で苦戦。08年北京五輪代表を逃し、そのまま引退した。本人いわく「一生に残る後悔」という04年アテネ五輪での敗北が、結果的に成功した指導者像を生んだ。

2004年のアテネ五輪 柔道男子100kg級4回戦で敗れる

 03年に世界選手権3連覇を果たし、井上康生は五輪2連覇も確実視されていた。日本選手団主将にもなった。だが五輪イヤーの3月中旬に膝を痛め、食中毒も発症するなど万全な状態ではなかった。それでも稽古で追い込み、ただ勝利だけを信じて本番を迎えた。

 組み合わせではトーナメント表の一番上に名前があり「優勝するなら白道着だけでいい」と決め、敗者復活戦で着る可能性のある青色柔道着は選手村に置いてきた。結果はまさかのメダルなし。4回戦で敗れた時点で気持ちが切れ、敗者復活戦も完敗した。

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