選手たちに同じような思いをさせたくない
「代表としての責任を果たせなかった。なぜあそこで踏ん張ってメダルを獲得できなかったのか。私の人生において、アテネ五輪は悔いしか残らない大会。戦術的、戦略的な対策も取らず、根性論に走ってしまった。負けるべくして負けた」
と述懐する。監督として当時の心境を話すたびに、最後に必ず付け加える言葉がある。
「選手たちには絶対に同じような思いをさせたくないんだ」
人生において無駄な試合など一つもない。母は51歳の若さで突然この世を去り、長兄も05年に32歳で同じく病により急逝。悲しい出来事により、
「明日、何が起こるか分からない。一日一日、一瞬一瞬を精いっぱい生きる」
との人生訓が芽生えていた。電撃就任した井上監督には、覚悟と決意がみなぎっていた。
海外勢の試合を2万近く分析した
東海大柔道部の同期生で軽量級担当の古根川実コーチの記憶では、12年11月9日だという。新体制で迎える初の国内大会を前日に控え、千葉市内の会場の会議室で指導陣によるミーティングを実施。井上監督は冒頭、強い口調でとうとうと語った。
「ここからリオ五輪に向け、私は命懸けで闘っていきます。もしこの中で全日本チームのために全力を尽くしていく覚悟のない方がいたら、ここで退室して下さい」
もちろん席を立つ人など一人もいなかった。古根川コーチは「全身が凍り付いた」と表現すると同時に、東京五輪直前にも「つらい状況などがあって逃げようとしている自分がいたら、あの時の緊迫した空気を思い出すようにしている。それで『よし、また頑張ろう』と思える」と話していた。
失地回復に向け、井上監督は歩みを止めなかった。エリートぞろいの代表勢にたくましさを根付かせるために単独での海外武者修行を導入。世界の動きがパワー全盛とみるや、個人任せだった筋力トレーニングをチームの練習メニューに組み込み、栄養学と合わせて専門家を招いた。固定観念を嫌って前体制が消極的だった映像研究にも着手し、意気に感じた科学研究部は海外勢の試合をリオ五輪まで約8千、東京五輪では2万近くにまで分析して積み上げた。
そして何より心血を注いだのが選手の意識改革だ。「日本柔道が目指すのは優勝のみ」との考えを頭の片隅に置きつつ、頂点を逃しても最後に3位決定戦で勝って締めくくる精神的な強さを求めた。その粘りこそが劣勢から追いつき、逆転する力に昇華すると確信した。
全力を尽くしながら敗れた選手には「次に生かそう」と鼓舞し、報道陣には「勝たせてあげられなかった私の責任」と擁護。アテネ五輪での苦い経験を自ら説きつつ、選手に寄り添う人情味もあった。少年時代にシドニー五輪の雄姿に憧れた世代の胸には衝撃的に響いた。日本代表は「真の闘う集団」へと変ぼうを遂げる。