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〈僕は是で男には大分ほれられる。女には容易に惚れられない〉

――教科書のイメージとまったく違いますね!

石井 コミュ障を描いているのに、〈親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりして居る〉という書き出しなど文体のテンポが圧倒的によくてぐいぐい読ませます。コミュ障の人が心の中ではやたら威勢よくしゃべっている、というギャップがおかしくて切ない。

 名著だからと義務感で読むとあらすじをなぞるだけで終わってしまうかもしれません。“こんな面白さがある”というツボを押さえた上で丁寧に読めば、固定観念が覆されると思います。

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 奥泉さんには『吾輩は猫である』のツボもお聞きしました。『吾輩は猫である』は、個人的に好きな作品です。漱石自身の人間関係が色濃く反映されているところが楽しい。椎茸を食べて前歯が欠けてしまう物理学者の寒月は、漱石の教え子だった寺田寅彦がモデルです。

 漱石は坊っちゃんのようにコミュ障な一面もあったけれども、若い人たちにすごく慕われていました。あまりにも訪問者が多いので面会日を木曜に限定したり、お父さんになってほしいとか熱烈なラブレターが送られてきたりしていたんですよね。〈僕は是で男には大分ほれられる。女には容易に惚れられない〉という言葉を門下生宛ての書簡に残しているほど(笑)。

 

 漱石の手紙といえば、親友の正岡子規宛てのものもいいですね。たとえば病の床についている子規に請われて、留学していたロンドンの街や人々の様子を文章で見事に写生してみせるくだりは心掴まれます。

『舞姫』は腹が立ってこそ、鴎外の術中にはまっている

――そうした角度からも作品に光が当たると、日本の近代文学の捉え方も変わってきますね。

石井 他にも興味深い例を上げると森鴎外。代表作の『舞姫』なんて、国費でドイツ留学をしたエリート青年・豊太郎が貧しい踊り子エリスと恋に落ちて、妊娠させたのに、見捨てて結局は単身帰国するという、今のジェンダー感覚にしたらあり得ないストーリーです。豊太郎に対して「なんだこの男は!」と腹を立ててしまうわけですが(笑)、平野啓一郎さんに「それはもう、鴎外の術中にはまっていますよ」と解説されて、目からウロコでした。つまり豊太郎は当時の様々な問題が凝縮された人物として描かれていて、エリスとの関係は個人を活用する近代国家のシステムによってなかったものとされてしまう、それで良いのか? と読者に問うている作品なんです。

 たしかに鴎外は平塚らいてうが新婦人協会を立ち上げる時にも協力していますし、樋口一葉や与謝野晶子を高く評価して後押ししています。平野さんは、鴎外が19世紀当時のドイツのフェミニズムの総会に出席した恐らく唯一の日本人であることも指摘していますが、そういう視点から読み解くと作品がまったく違う顔をもって立ち上がってきます。