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インチキ観光産業を築き、ネットの誹謗中傷で蓄財…ノーベル賞作家がリアリズムの手法で中国農村の70年史を描く

藤井省三が『遅咲きの男』(莫言 著)を読む

2021/08/25
『遅咲きの男』(莫言 著/吉田富夫 訳)中央公論新社

 莫言は中国農村の現実を魔術的リアリズムで描く作風により、2012年ノーベル文学賞を受賞した。同賞受賞後8年の空白を経てようやく刊行されたのが、本短篇集である。

 表題作「遅咲きの男」とは、莫言愛読者にはお馴染みの虚構の村、高密県東北郷で、ノーベル賞受賞に便乗してズル賢こく立ち回る男である。人民共和国建国時、彼の家は貧しい雇農(雇われ農民)で、共産党による階級区分では最上級であった。しかし青年時代の彼は石橋に座り足先で魚を釣ると称しては「阿呆の蒋二」と呼ばれていた。農奴制を連想させる人民公社に絶望し、サボタージュしていたのであろう。改革・開放政策による人民公社崩壊後には、一転してインチキ観光産業を築くようすを、莫言はユーモアたっぷりに描き出している。

 本書の原題は「晩熟的(の)人」で、女性主人公も登場する。「明眸皓歯」(原題:紅唇緑嘴/紅い唇と緑の口)のヒロインのあだ名は参謀殿、莫言と等身大の語り手「わたし」の小学校同級生である。彼女も雇農出身で、蒋二とは異なり成績も良かったが、担任の若い女性教師の善意を逆恨みして、文化大革命(1966~76)が始まると、教師のお下げ髪を切り、これを縒って鞭にして彼女を殴り自殺に追い込んだのである。

 その後、参謀殿は文革宣伝係として頭角を現すが、教師殺害の告発状により出世はとん挫してしまう。ネット社会が到来するとインフルエンサーとなり、“紅い唇”と“緑の口”という2つのアカウントを駆使して、誹謗中傷により蓄財し、ついに「わたし」さえも脅迫するのであった。文革時代は早熟な革命分子、現在は早熟のデマ捏造家が皮肉たっぷりに描かれている。

「松明(たいまつ)と口笛」のヒロインは「わたし」の叔父の嫁であり、結婚前には都市戸籍を持ち、高密一の美女にして家業の蝋燭に麗筆で名句を書く才媛でもあった。彼女が国有企業労働者とは言え炭坑夫の求愛に応じたのは、彼が口笛の名手であっただけでなく、“紅五類”(労働者・貧農下層中農・革命軍人・革命幹部・革命烈士)という革命指導階級に属していたからでもある。彼女の一家は“黒五類”(地主・富農・反革命分子・悪質分子・右派分子)という反革命分子として差別凌辱されていたのだ。夫が落盤事故死し、息子が狼にさらわれた後、彼女が企てる壮絶な報復劇は魯迅の名作「祝福」を連想させる。

 もっとも「祝福」は魯迅と思しきインテリが、女性差別体制下における無知だが働き者の貧しい農婦の不幸な転落を語る短篇小説である。これに対し莫言のヒロインは、思慮深き闘いを展開するのであった。

 本書収録の12篇は、いずれも枯れた味わいの奧底に鋭い社会批判を秘めている。魔術は影を潜め、リアリズムの手法が描く中国農村70年史は実に興味深い。

モオイェン/1955年、中華人民共和国・山東省生まれ。76年、人民解放軍に入隊。85年に『透明な赤蕪』で作家デビュー。2012年、ノーベル文学賞を受賞。『赤い高粱』『至福のとき』『酒国』など著書多数。
 

ふじいしょうぞう/1952年、東京都生まれ。中国文学研究が専門で、東京大学名誉教授、名古屋外国語大学教授・図書館長。

遅咲きの男 (単行本)

莫言 ,吉田 富夫

中央公論新社

2021年6月21日 発売

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