1ページ目から読む
2/4ページ目

ーー息子というか、男のあれこれは父親のほうがわかってくれるみたいな部分もあるかもしれないですしね。

後藤 まぁ、そうですね。父親もそんな感じで、怖いと思えるような存在でしたけど、仕事から帰ってきたら一緒にお風呂に入って、学校のことを話したりとか、いろいろと子供のことに目を向けてくれたので。

 母親には言えないこととかも、やっぱり小さいながらにあるじゃないですか。そういうことを話せる存在がいなくなってしまったという面も、やっぱり大きいですよね。

ADVERTISEMENT

 

ーーやはり、叱られるにしてもお母様とお父様ではかなり違いがあったと。

後藤 母が厳しかった父の代わりもしてくれてはいましたけど、どうしても母の言葉だけでは響かないところがあったんですよね。それゆえに、悪い方へ進む一方になってしまった当時の自分がいたというか。

中学のクラスで、「札付きの悪い子」が集まってしまった

ーー中学生になって非行に走るわけですが、お住まいになっていた江戸川区の瑞江は、いわゆる“ヤンチャ”な方々の多い地域だったのでしょうか。

後藤 僕自身としては生まれ育った町なので、そういった実感は薄いです。でも、若い時から、知り合った人に「どこに住んでるの?」と聞かれて「江戸川区の瑞江」って言うと、「え、メチャメチャ治安が悪いんでしょ?」と返されるみたいな(笑)。そういうふうに言われることは多かったですね。

ーーでは、後藤さんの入った中学校もおのずと不良生徒の割合が高かった?

後藤 僕たちの学年に不良が多かったんです。もっと言えば、僕は入学当初1年1組だったんですけど、その組に各小学校の札付きの悪い子が集まってしまった。

 一組あたりの生徒数が35人くらいで、僕の組は男子の10人くらいが不良。後に銅線窃盗事件で共犯になる子たちも同級生でした。

ーー中学校全体というよりも、その年に入学した1年生が不良ばかりだったと。

後藤 先輩たちにも目立った不良はいなかったし、僕たち以降になると悪い子はガクッと数が減ったみたいです。長年、学校にいた先生が「こんな学年はいままで見たことない」と呆れるくらいで。

 

ーー校舎の窓から校庭に向けて牛乳瓶を投げまくったり、洗面所の蛇口を片っ端から折ったり、新聞配達の原付バイクを盗んだりと、段々と非行がエスカレートしていったそうですね。

後藤 そうです。学校のほうもどんどん荒れていって、どのクラスも学級崩壊になって先生が来なくなってしまって。3学期には、生徒の親がいれば問題を起こすことがないだろうと、1年の全クラスで毎日授業参観が行われていました。