子どもの頃から、夏のオリンピックがどうも苦手だ。
そもそも、国別で競い合う大会が全般的に乗れない。疑似戦争をしているように思えてしまうからだ。それでも、たとえばサッカーのワールドカップであれば競技そのもののゲーム性やエンターテイメント性の面白さがあり、冬のオリンピックであれば雪上や氷上で躍動する人々の画としての美しさもありで、それなりに楽しめるのだが――。
夏となると、速く走るとか、速く泳ぐとか、遠くに跳ぶとか、柔道が強いとか、レスリングが強いとか――全く興味が湧かず、熱狂的な報道にウンザリする。そのため、夏のオリンピックで世間が盛り上がる時期になると、自分が変わり者なことを思い知らされて鬱々とした気持ちになる。
そんなささくれだった気分を癒してくれるのが、今回取り上げる『東京オリンピック』だ。前回、一九六四年の東京オリンピックの模様を市川崑監督が撮ったドキュメント映画である。この作品の何がいいかというと、オリンピックという大会であり、そこで行われる競技であり、出場する選手たちであり――に対して市川崑が冷めていることが露骨で、ホッとできるのだ。
市川崑といえば、対象を客観的に見つめて引いた視点から捉え、身体性や感情を無機的に解体していく、そんなクールで乾いた演出を貫いた監督だった。それはオリンピックが題材になっても変わらない。個々の競技や選手たちを徹底して引いた、客観的に冷めた視点で見つめていることが画面の至るところから伝わってくるのである。
例えば一〇〇メートル走では走る姿をハイスピードで撮影しているため、その動きはスローで映し出される。しかも、レースの全体は全く映さない。そのため競技のスピード感も、会場の高揚感も伝わらないのだ。新記録を出して歓喜する選手を物凄く遠くから映して、表情を全く見せていないことにも驚かされる。
その後もほとんどの競技が乾いたアングルで切り取られ、大会の熱気は徹底的に解体。劇的に盛り上げる演出はほぼないまま、淡々と進む。
そのため、当時も今も「記録映画として不適格」と批判はある。が、そもそもオリンピックと対極的な作家性の持ち主である市川崑を起用したこと自体が間違いなのだ。むしろ、これだけの国家事業を任されてなお、自らの作家性を貫いた市川崑の姿勢は見事としか言いようがない。
競技シーンに大げさな実況とエモーショナルなBGMを入れて「感動をありがとう」と大仰に盛り上げる昨今のテレビ報道を迂闊に観てしまった時などの、最高の解毒剤だ。