――今回の本では、複数のエッセイで「廊下」という場所が出てきます。廊下ってたしかに、誰かと話を共有するちょっとした避難場所ですね。
東畑 そうなんですよ。休み時間に無駄な時間を過ごしていて、次の授業まで待っている時に、なぜか秘密の話をしちゃうわけじゃないですか、僕らは。あそこからだんだん仲が深まっていくんだけど、オンラインだとそれがやりにくい。通学できるようになっても、感染予防を重視しすぎると、廊下や食堂で話をすることもままならない。心が蠢くような、親密な時間が否定されちゃっているわけです。コロナよ、廊下を返してくれ、と言いたい。
『心はどこへ消えた?』は反時代的な本である
――東畑さんとしては、心は人と人の間にあるという考え方とも違うんですか。
東畑 この連載の秋ぐらいから、自分のなかで変化がありました。この連載自体は『居るのはつらいよ』の流れで始まっています。ケアや共同性について書いた『居るのはつらいよ』は、まさに人と人との間に心があるという話です。
連載の前半はそういうノリが少なからずあったんですが、秋に入ったころに「午前4時の言葉たち」というエッセイを書き、そのころから孤独について真剣に考えるようになりました。それまでは、心は人と人との間にあるように僕も思っていたし、もちろんその側面が大きいんですけど、それだけでは語れない側面が心にはあるんじゃないか。それは、午前4時にふと目が醒めて、感じてしまう孤独のなかにあらわれるような心です。
社会的孤立や無縁社会の文脈で使われる孤独には、社会的な手当てが必要です。言うまでもありません。つながりを確保することは死活問題であり、それは前提です。でも、生きる基盤となる関係性が満たされたうえでも、人間は孤独であるということが昨今あまり語られなくなった気がするんです。
孤独を語らないことは、本当の意味での個別性を語らないことですよね。近代文学は個人の内面や個別性を語ってきたと思うんですが、ポストモダン以降、そういう近代的個人は幻想だと言われ続けてきたこともあって、心を語ることがとても難しくなっているように感じます。その意味で、この本は午前4時の本であり、反時代的な本だと思うんですよね。
――心は間にもあるけれど、それぞれの個にもあると?
東畑 平野啓一郎さんの『本心』という小説が、まさにその問題を扱っています。2040年代の日本で生活している青年が、AI技術やVR技術を使って亡くした母親を再生させるんです。彼は、AIとの間で心を感じるようになります。これは「間」にある心ですね。
でも一方で、彼は「お母さんは本当は自分のことをどう思っていたんだろう」と、考え続けてしまう。そういう疑問を抱いてしまうのは、母親に心があると思っているからだし、そのことで自分のなかにも心が置かれる。
廊下のような中間的な場所、言うなればアジールで、その人らしさみたいなものが見えてくるのも同じですよね。教室ではわからない、相手の複雑な何かに触れたとき、人は相手の心を感じるし、相手もいつも見せているキャラとは違う自分のことを感じているかもしれない。いつものキャラの向こうに心はあります。いや、キャラと本心、その二つの心が複雑に絡み合いながら、その人が生きているのを見るとき、僕らはその人の心を感じる。ここでも心は二つあって、ようやく一つ存在することができるのだと言えるでしょう。
(撮影:今井知佑/文藝春秋)
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