あなたは心を見失っていないか? いや、そもそも今の社会では、心のための場所が消えてしまったのではないか?
そう問いかけているのが、臨床心理士である東畑開人さんの新刊『心はどこへ消えた?』だ。「心」という「小さな物語」を綴った理由について、東畑さんに話を聞いた。(全2回の1回目。後編を読む)
「大きすぎる物語」と「小さすぎる物語」
――「週刊文春」での連載をまとめた新刊『心はどこへ消えた?』には、長めの序文を付けて、連載の舞台裏を語られています。そこでは、バブル期から90年代までの「心の時代」が終わり、21世紀に入って「大きすぎる物語」と「小さすぎる物語」に二極分解したという時代の大きな見取り図を描いていますね。
まず、そういう時代認識をするようになったきっかけからうかがいたいのですが。
東畑 やっぱりコロナの影響が大きいと思います。連載中はつねに心についてのネタを探していました。新聞やテレビを見たり、SNSを巡回したりしていたんですが、どこを見ても政治や経済の大きな話しか書いてない。感染者数や陽性率など、数字やデータ一色で、心についてのものすごく小さな話がどこにもないんですね。心はどこへ消えた? そう独り言をつぶやいていました。
そうやって考えてみると、心が消えたのは昨日、今日の話ではないんじゃないか。かつて河合隼雄のような心理学者たちは、小さなエピソードを書きながら、オルタナティブな世界や価値を語っていました。でも21世紀に入って、心理学はオルタナティブを語るものではなく、厳しい現実をなんとか生き延びるためのものとなっていきました。一般向けの心理学本もライフハック的なものやマインドフルネスのものが多いですよね。
それはもちろん、必然性があります。社会がきわめて厳しい場所になったからです。その背景には、日本社会が貧しくなったことがあります。心理学がキラキラしていた80年代、90年代の日本は豊かでした。物の豊かさがあったからこそ、「心はどうか」と内面に目を向けることができました。
ところが21世紀に入るあたりから不況が続き、経済が停滞した。格差が広がり、労働環境も劣化しただけでなく、個人の保護壁となるような中間共同体も解体して、生きるリスクは個人が背負わなければならなくなりました。その結果、世界や社会をどうするかという「大きすぎる物語」が切実になって、小舟のように生きる不安定な個人の物語は「小さな物語」どころか、「小さすぎる物語」になってしまったと思うんです。
――コロナ以前からあった「大きすぎる物語」とはどういうものでしょうか。
東畑 端的にいえば、グローバル資本主義やそれが引き起こす災厄です。「心の時代」と言われた80年代後半や90年代は、ポストモダンの「大きな物語の終焉」が盛んに語られた時代でもありました。でもその後にやってきたのは、グローバル資本主義という「大きすぎる物語」でした。なにせ地球単位ですから。気候変動問題もしかりですし、大きすぎる問題が山積みのなかで、「小さすぎる物語」に耳を傾ける余裕が失われていったように感じていました。