日々のカウンセリングを描きたかった
――収められたエッセイを読むと、東畑さんの本業であるカウンセリングの場面が数多く描かれています。一方で、『居るのはつらいよ』や『野の医者は笑う』の舞台だった沖縄のことはあまり触れられていません。連載を続けるにあたって、カウンセリングについて書くことは意識されたんですか。
東畑 おっしゃるように、僕の日々の仕事の中核はカウンセリングなんですよね。だから、プライバシーの問題があるのでそこで起きている事実やファクトについては書けないにしても、カウンセリングという営みがどういうものであるのかを書いてみたいという気持ちはありました。そういうときに連載の依頼があったんです。
沖縄時代を描いたこれまでの本は、スピリチュアルなセラピーにせよ、デイケアにせよ、カウンセリングではないものから逆に「カウンセリングとは何か」を問うものでした。これは異質なものとの比較を行う人類学的な方法です。それは僕なりに手ごたえのある答えをもたらしてくれたわけですが、ならば、今ならカウンセリングそのものについて書けるのではないか。そういう思いがこの1、2年ずっとあったんです。そんな折、この連載の話をいただいたので、チャレンジしました。
――カウンセリングの場面を描いているエッセイは、共通した構造で書かれているのも印象的でした。枕として、東畑さん自身に関するネタがあり、そこからスッとカウンセリングの描写に入り、最後に両者をつなぎあわせた視点を提出して締める。様式美のようなものを感じさせますね。
東畑 連載途中で確立しました(笑)。これは臨床心理学の伝統的な論文の書き方を応用したものなんですよ。
前振りや問題設定などのイントロがあり、真ん中に事例を入れて、最後に考察するというのが、事例研究の定番の構成です。その様式を借りて、イントロでは38歳の僕の小さな物語を語り、真ん中にクライアントの小さな物語が入る。そして最後に、僕とクライアントの物語に通底するものを引っ張ってくる。たぶん、臨床心理学ってそういうものなんですよ。
――というと?
東畑 たとえば高齢者を治療している心理士が、不登校の臨床事例の話を聞くと、なぜか自分の臨床に役立つ視点が得られることがあるんです。これが日本では河合隼雄が確立した臨床心理学の方法論です。人の物語を聞くことがなぜか自分の物語を生きることの役に立っていく。
ただ、こういう事例研究はだんだん廃れてきているように思います。さまざまな理由がありますが、やはりエビデンスを作るようなシステマティックな研究が社会的には必要とされている中で、個別の小さな物語を描くことの研究としての需要が小さくなっているのが大きいのではないかと個人的には思います。
だけど、事例研究はいいんですよ。僕のように普通に臨床をしている人にとっては、誰かの事例を読むのが一番役に立ちます。だから、この本にも、おはなしとか物語がもっている、読者たちそれぞれが生きている物語を誘発する力が宿っていればと願っています。