あなたは心を見失っていないか? いや、そもそも今の社会では、心のための場所が消えてしまったのではないか?
そう問いかけているのが、臨床心理士である東畑開人さんの新刊『心はどこへ消えた?』だ。「心」という「小さな物語」を綴った理由について、東畑さんに話を聞いた。(全2回の2回目。前編を読む)
文学的な心が語りにくい時代
――公認心理師について触れているエッセイでは、公認の場所に心があるのか、疑問を呈していました。「それって、本当に心なのかい?」と。
東畑 RADWIMPSっぽいでしょ(笑)。心理の世界は長年、民間資格しかなかったところに、ようやく国家資格ができました。心理士のなかでも賛否両論あって、かなり揉めたんですが、僕は基本的に反対していなくて、できてよかったと思っています。自分自身も取りましたしね。
一方で、教科書やカリキュラムがずいぶん行政的になってしまったことも事実だと思っています。国家資格になる以上、国家の官僚制の一端を担うわけですから、それはそれで必然だと思いますが、それだけが心ではなかったはずだろうという気持ちはありました。
――心理学という学問のなかでも、心は消えかかっているんでしょうか。
東畑 心のどの側面に焦点を当てるか、によると思います。
大雑把にいうと、心の半分は科学法則的にできていて、そのメカニズムを語り、取り扱うことが可能です。だから、いわゆる「心理学」という学問はそういう意味での心をきちんと取り扱っています。でも、心のもう半分は文学的にできていると思うんです。つまり、メカニズムだけじゃなくて、それぞれの人生を流れていく物語としてできているところもあるわけです。
脳科学や認知心理学的なメカニズムで語られている心はもちろん今でも盛んに研究されているし、社会の役に立っています。それとは別に、オープンダイアローグや当事者研究など、心の問題を社会や共同性の問題としてとらえられていくアプローチも盛んになってきました。