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 しかし、個人のそれぞれの人生における心、つまり生きることの文学的な側面の価値がいまはすごく語りにくい。そしてそれは教科書やカリキュラムに載せづらい(笑)。「大きすぎる物語」に対応しなきゃいけない世界で、それはあまりに小さすぎて、言葉になりにくいのだと思います。でも、僕らはやっぱりときどきは文学的になっていて、そうやって人生の物語を振り返ったり、展望したりしてると思うんですね。だから、「心はどこへ消えた?」というタイトルには、心を再発見していくプロジェクトを再起動したいという思いが込められています。とはいえ、もちろん現場の臨床家はみんなそれをやり続けてきたんですけどね。

 ちょっと脱線すると、先日コロナのワクチン接種会場に行ったら、自分が家畜のように扱われているように感じました。

――ああ、それは僕も思いました。なにか自分がベルトコンベアに乗せられているような……。

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東畑 そう。非常に快適にできているでしょう。だから、何も考えないままに列を流れていって、気づいたらプスッと打たれている。ナッジが絶妙に効いている。もちろん、あれはあれでいいんですよ。そうじゃなきゃ、大量の人数を捌けません。だけど、ワクチン会場に心がなかったというのも事実だと思うんです。もちろん、いちいち会場で、俺の人生にとってのワクチンとは何かとか考えるような仕掛けになってたら困るんで、それはそれでいい。でもね、じゃあこの世界からまったく心の場所がなくなっていいかというと、そうは思えないんですね。

 だって、ワクチン会場には心はなくても、ウロウロと家畜のように導かれている僕たち一人一人はいろんな文脈とか人生の経緯があってあそこに来ているわけじゃないですか。いろいろな思いを本当は抱えている。そこに心はある。だから、そういう文学的な自分をいかにすれば人生の中で確保していくことができるか、その価値とは何か。それが問題です。

 ここまで僕は、ひたすら「でも」「だけど」と逆接を使い続けてます。結局、そうやって、否定に否定を重ねて、「でも、だけど、それでも」みたいな逆接の果てに最後は心があった方がいいのではないかと、最近はずっと考えているんです。

 

心が一つ存在するために、心は必ず二ついる

――書名の「心はどこへ消えた?」には、二つの含意があるように思ったんです。一つは社会の中から心が見失われていったということであり、もう一つは、一人一人の人間の心が見えづらくなったと。

東畑 そのとおりですね。カウンセリング場面として描いているのは、自分や相手の心が見えなくなって、それを再発見していく物語ですよね。心理療法って、消えた心を探していく共同作業だといってもよい。それくらい、心はすぐに消えてしまう。だから、また一緒に探す。この切ない積み重ねなんです。

 そういった個の心の問題と、社会全体から心が消えていくという話が重なっている。それを時代図式的に説明したのが、前編で説明した長い序文という位置づけです。