「初めてタイム(の向上)がストップしたんです。いっきにガンと落ちてしまった。当時は世界との戦いというより、自分との戦い。ベストを出すのが目標だったのに、それがクリアできなかった」
4年プラス1年を経て、2度目のパラリンピックに出場する。ベストタイムを物差しにすれば、メダル圏内。川本は謙虚に、しかし大胆に言った。
「得意種目の3km個人追抜で、しっかり100%を出し切りたい。あんまりハードルを上げたくはないんですけど、(メダルを)狙えると思います」
「体育の授業がある日は何が何でも休まない」
茨城県出身の藤井美穂(26)もまた、生後すぐに片足を失った。母のおなかの中で寄り添い合っていた双子のもう一人の赤ちゃんの命が絶え、その影響で藤井の右足は壊死していたのだ。ひとつの命を救うため、切断はやむを得なかった。
川本と同じように、片足とはいえ藤井は元気いっぱいに動き回る子どもだった。やはり義足を使う頻度は高くなかった。弾むような口調で言う。
「体育の授業がある日は何が何でも休まない。体育があるからって、熱があるのに学校に行こうとしたら先生に怒られました。(前腕に固定するタイプの)つえを使って、ドッヂボールとかマラソンとか、全部やってましたね」
パラリンピックの存在を知ったのは小学校高学年のとき。車いすテニスの試合をテレビで見た。それまで「パティシエ」の一択だった将来の夢に「パラリンピックの選手になる」が追加された。
走り高跳びで好成績を出し「これを本業にしよう!」
自転車競技を始める前は陸上の選手だった。小学6年生のとき、原体験とも言える出来事があった。
複数の学校間で競い合う、地域の体育祭。最低でも1種目に参加しなければならなかったが、藤井が自分の学校のポイントに貢献できそうなものはなかなか見つからない。そのとき思い出したのが、体育の授業で経験があった走り高跳びだった。
授業では、片足の藤井が助走なしで跳んだバーの高さを越えられない女子が何人かいた。「これならいい成績が出せるかもしれない」。直感は当たった。
「ほかの学校の子も合わせて9人ぐらい出ていたなかで4位ぐらい。5人も下にいるなんて結構すごいなって。それですぐ『これを本業にしよう!』って思いました」