「障害者」と「不自由」。この2つのワードを安易にイコールで結びつけるべきではないのかもしれない。
東京パラリンピック自転車競技の日本代表・川本翔大(25)は、生後まもなく悪性腫瘍が見つかった左足を付け根付近から切断した。「できること」と「できないこと」の境目について、こともなげに言う。
「できないことって……ないかもしれないですね。一般の人とやり方は違うかもしれないけど、片足なりにどうやったらできるのか。自分の中で工夫して、これまでやってきました」
松葉づえとともに生きてきた。義足を装着するより、速く自由に動けるからだ。
母親は、スポーツ用の道具は何でも買ってくれた
川本の母は、幼い息子を積極的に外に出した。体を動かすことが好きだった少年は、さまざまなスポーツに興味をもった。
サッカー、バスケ、テニス、卓球、バレー、バドミントン……。親しんできた競技の名前はぽんぽん挙がる。
「何でも好きですね。自分が結構飽き性で、いろんなことをしたくなる。母親からは『危ないからやっちゃダメ』とは一切言われませんでした。母子家庭でお金の面ではちょっと厳しかったと思うけど、スポーツをするための道具は何でも買ってくれました」
高校進学後は、野球部に入った。松葉づえをつきながらのプレーはかなり難しいはずだが、川本は淡々と言う。
「足2本でやるっていうのを知らないので。全然、気にはなりませんでした」
脇に挟んだ松葉づえを支えにしながらグラブやボールを巧みに持ち替え、一般の生徒に交じって白球を追った。
病院で見知らぬ人から誘われた障害者野球
松葉づえでは危険だとして試合への出場は許されなかったが、野球をしていたことが未来への扉を開く。
ある日、病院で見知らぬ人から声をかけられた。
「野球やってるの?」
右足に履いていた野球用のトレーニングシューズが目に留まったらしい。川本は障害者野球という競技があることを教わり、「やってみないか」と誘われた。始めてまもなく、持ち前の運動能力を発揮して頭角を現す。18歳のときには日本代表選手として世界大会に出場した。