事故から2年たらずでトライアスロン大会へ
事故から2年と経っていない2006年5月、初めてのトライアスロン大会に挑んだ。大学4年生になっていた藤田にとって最後となるインカレの関東予選が2カ月後に控えており、「その前に一回ステップを踏んでおきたい」と考えての出場だった。
レース当日は激しい風雨に見舞われた。藤田は競技の切り替わりと同時に、義足も履き替えなければならない。そこでミスをした。完全に装着しきれていない状態で立ち上がってしまったのだ。
転倒して体を路面に打ちつけた。なんとか義足を着け直して走り始めたが、動きが徐々に止まる。「低体温になりかけて、途中で息絶えました」。苦笑いで言うが、鋼の意志を持つ男にとって痛恨の経験だったに違いない。
それでもめげることはなく、本番のインカレ予選では健常者に交じって完走を果たした。さらに、ニュージーランドで開催された226kmのアイアンマンレースをも走破。こうして藤田は「両足義足の鉄人」になった。
レースの完走に喜びを感じ、向上心はなお高まった。自転車の力を伸ばそうと、障害者のトラックレースに出場することに。これが転機になる。
パラサイクリングへの転向、そしてパラリンピックへ
「パラサイクリングの世界選手権にチャレンジしてみないか」
競技団体からの打診に対し、「こんなにすごい機会をもらえることはまずない」と挑戦を決意。2007年、初出場した世界選手権の1kmタイムトライアルで2位に入った。
「次も遠征があるから」との勧めに応じて世界の大会を転戦した。上位入賞を続けるうち、目の前に新たな道が開けていくのを感じた。やがて北京パラリンピックの出場選手に内定し、自転車のトレーニングに専念するようになった。
初出場のパラリンピックで、快挙を成し遂げる。トラックの1kmタイムトライアルで銀メダルを獲得。義足を用いた競技者としてパラリンピックメダリストになったのは、藤田が日本で初めてだった。同大会では銀をもう1つ(3km個人追抜)と、銅を1つ(ロードタイムトライアル)、合計3つのメダルを持ち帰った。
言うまでもなく、それは誇らしい功績だ。だが一方で、忸怩たる思いが募った。
「銀メダルまで行けたことはすごいと思いますけど、選手としての浅さ、未熟さがすごくあった。当時、自転車競技の代表選手の壮行会が、オリンピックとパラリンピック合同であったんです。隣には、ずっと自転車に取り組んできたオリンピック選手がいて、日本のトップ選手だと紹介されていました。そのときに、恥ずかしいなって自分で思ったんですよね。こんなに未熟なのに、ちやほやされて」
もちろん、金メダルに手が届かなかったのも悔しかった。意気込みすぎて普段ならありえないミスをした。
「オリンピアンと並んでも恥じ入る必要のない選手になりたい」
「もっと自転車にしっかり取り組んでいったら、どこまで強くなれるんだろう」
そんな思いが掛け合わさって、4年後に向けての一歩目は自然と出た。