また、ひとり。
西武ライオンズに“甲子園優勝投手”が加入した。
平沼翔太。敦賀気比高時代の2015年春のセンバツで北陸勢初の甲子園制覇を成し遂げた。エースで4番として活躍し、同年ドラフト4位で入団。8月中旬、日本ハムとの交換トレードで西武ライオンズに入団したユーティリティプレイヤーだ。
甲子園通算10勝2敗。
平沼の投手としての成績だ。
だが、松坂大輔、高橋光成、今井達也ら“甲子園優勝投手”と平沼が異なるのは、プロ入り後、野手に転向したという点だ。前所属先の日本ハムの一つのプロジェクトとして「花形のショートで育てる」という大胆なチャレンジだった。
甲子園優勝投手から打者になった選手がライオンズのユニフォームを着る。
平沼とはいったい、どんな選手なのか。
平沼の名が世間に知れ渡ったのは高校2年生夏の甲子園だった。
強力打線を形成するも、なかなか投手陣が安定していなかった中に、台頭したのが下級生の平沼だった。いかにも野球小僧と言える風貌だったが、そのピッチングスタイルは若くなかった。
140キロそこそこのストレートにカットボール、スライダー、チェンジアップをコントロールよく投げ分ける。昨今の高校球児の有名なピッチャーは150キロほどのストレートでグイグイと押していくタイプが多いが、平沼は一線を画す業師だった。相手打線の狙いを見透かすかのように老獪に投げるのが持ち味だった。
同時にバッティングセンスも非凡で光るものがあった。
平沼は出場3度の甲子園では投手として10勝2敗の成績を残す一方、打者としてもミートセンスに優れ40打数15安打1本塁打となかなかの成績を残しているのだ。
とはいえ、平沼は投手として活躍したい気持ちの方が強い選手だった。日本ハムの担当スカウトによれば「甲子園で10勝しているのは歴史上7人しかいないんですよ。それでも、野手っすか」と名残惜しそうに言っていたそうだ。
今日できなかったら明日取り返す
ただ、日本ハムは平沼のバッティングセンスにただ惚れていたから、打者に転向させたわけではなかった。この転向が普通ではなかったのはショートという野球でいうところの花形ポジションを任せたことだ。彼くらいの能力があれば、三塁手や外野手での挑戦であれば容易かっただろう。それをあえてショートにした。
そこには彼の性格面を基本にした球団のプロジェクトがあった。
日本ハムのスカウト部長の大渕隆がかつてこんな話をしていた。
「彼は難しいことでも実現してしまうんじゃないかと思わせてくれる人物だと思いました。中学のクラブチームの総監督だった小林繁さん(故人)から『日本一になれ』と言われて日本一を目指すと誓ったそうなんですね。それも福井の敦賀気比から日本一になるんだと。
当時、敦賀気比が全国の上位チームだったかというとそうではなかったと思うんです。でも、そこで日本一になるんだという思いをもって、実際に果たした。すごいことを成し遂げているんですよ。これは、なかなかできることじゃない。普通に考えたら無理だと思うようなことをやったんだから、彼ならすごいことをやるんじゃないか」
平沼がプレイヤーとしてのストロングポイントになるのは、おそらく限界を突破する力だろう。大渕の言葉をそのまま鵜呑みにするわけではないが、彼は自分の中での目標を立てて、それを実現しようと努力する人生を歩んできた。
中学から高校が終わるまで記していた日記には、日々の目標を書くだけでなく、成功・失敗に対して、自身の心情を綴ってきた。人によって書かされた日記ではなく、心情を映し出すことで、日々の練習強度へと変えていたのだ。
例えば、平沼は『福井県から全国制覇』、『150キロを投げる』、『プロ入り』という三大目標を立て、それを達成するために、中学生の時は『月に何回腹筋する必要がある』という小さな目標設定をしていた。
当然、中学生では意思を強く持てる時もあればそうでない時もある。しかし、平沼はその思いを記していたのである。
目標を達成しなかった日の内容はこんな風だ。
『今日はできなかった。だから、明日取り返す!』
そして、翌日に目標を達成するとこう書いてあった。
『今日はできた。できるなら、最初からやろうぜ』