筒美京平は日本歌謡曲史上、最大のヒットメーカーだ。記憶に残るあの曲この曲、まさに名曲の宝庫である。
しかし、筒美の素顔は秘密のベールに閉ざされていた。その秘密に分け入ったのが、生前親交があった音楽家の近田春夫氏である。近田氏による『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』(文藝春秋)から一部抜粋して、孤高の天才の創作の秘密を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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80年代のアイドル
──80年代に入っても、京平さんの快進撃は続きます。
近田 この時代になると、ロックの影響かもしれないけど、アイドルやってる人たちにも 「自分は何で歌うのか」っていう自意識が芽生えてくるんだよ。だんだん、職業作家の先 生方から有難く曲をいただくっていうより、コラボレーションを行っているという感覚が先行するようになる。まあ、俺に言わせりゃ、かなり恐れ多いことなんだけどさ(笑)。
──アイドルにもアーティストとしての自覚が生まれたわけですね。
近田 つまり、曲と歌い手の間に乖離を生じさせないことが求められる。そこに誠実な形で歩み寄ったことは、その後の京平さんにとって本当に重要だったと思う。
──すでに名を成した大家にとっては、その意識の更新はなかなか難しいですよね。
近田 新しいもの、若い人たちが興味を持つものに対する貪欲な好奇心が、京平さんは際立って強かった。80年代になると、京平さんと同世代の作曲家は、流行から脱落していく。例えば、平尾昌晃さんとか、中村泰士さんとか、うんと若い頃にはビートの強い楽曲を書いていた作曲家も、齢を重ねるに従って、抒情に満ちあふれた渋いバラードに走ってしまう。「日本の心」みたいなものを掲げたりしてさ。
──平尾さんも中村さんも、元来はロカビリー歌手ですね。往年は、エッジの立った最先端の音楽に挑む気概とともにキャリアを開始していた。
近田 若い頃こそ洋楽的なアプローチを行っていたけど、齢を取ると新しいインプットが少なくなるから、元来心の中に潜んでいたしみじみとした日本的な要素が沁み出してくる。 そもそも、皮膚感覚的に洋風の音がカッコいいと感じてこの世界に入ってきたわけで、アカデミックな意味で洋楽の構造に興味を抱いていたんじゃないわけ。そうすると、自分の内面においてカッコいいと思う対象が、いつの間にか和風のものに置き換えられていく。それが、この国におけるある程度大成したヒットメーカーの常道的な歩み方だったんだよ ね。