作詞家・秋元康の登場
──80年代に入ってから、新たに組むようになった作詞家の1人が秋元康さん。京平さんとの最初の仕事は、昭和57年の稲垣潤一「ドラマティック・レイン」でした。
近田 稲垣潤一って、A&Mを代表するシンガーだったクリス・モンテスみたいな歌い方をするから、いかにも京平さん好みなんだよね。
──70年代における大橋純子や庄野真代への提供楽曲と同様に、シティポップスの流行に対して京平さんが突きつけた回答というニュアンスも感じます。
近田 俺さ、秋元が売れてきた頃に京平さんと話してたら、「とにかく近田君のライバル は秋元君なんだから」って言われたのよ。意味が分かんなくてさ。だって、仕事のジャンルもスタイルも全然違うじゃん。
──秋元さんは、事あるごとに近田さんに対するリスペクトを表明してますよね。「近田春夫になりたい」とまで言っている。
近田 俺、秋元のことは、あいつが中央大に通いながら放送作家をやってた頃から知ってるのよ。俺が出てたニッポン放送の「タコ社長のマンモス歌謡ワイド」って番組の構成を手がけてたからさ。作詞家としてのあいつの才能は、ベタとメタを両方使いこなせるところにある。ベタなことを照れずにやることができるし、物事を俯瞰するメタな視点を持っている。
──「週刊文春」の連載「考えるヒット」では、秋元さんの歌詞を評して、結構辛辣なこと書いたりもしてましたけどね(笑)。
近田 秋元とは、いまだに京平さんの存在を通じてつながっている感覚があるんだ。たまに会ったりすると、やっぱりどうしても京平さんの話題が上ったりするし。
──京平さんが、自分より若い面白そうな人材を拾い上げる際の基準は?
近田 職人としてのスキルの優劣よりは、その奥にある、次の時代を切り開く何かを持っているかどうかにあったと思う。常にアンテナは張っていたよね。自力でがむしゃらにチェックするわけじゃなく、弟の渡辺忠孝さんとか、信頼できるレコード会社のディレクターとか、そういう親しい人たちに「誰か面白い人いない?」って何となく聞いていたんだと思うけど。ひょっとしたら、自分もその末席を汚していたのかもしれない。
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