スケボーと卓球のあまりの雰囲気の違い
――ショーの演出は湯山さんの専門だと思うのですが、競技もご覧になっていますか?
湯山 オリンピックもパラリンピックも見ていますが、伝統的な学校主体の体育会系の息苦しさが目立ってきているのが印象的です。
――確かに話題になったのはスケボーなどの新競技が多いです。
湯山 スケボーやBMXの選手たちの勝敗の結果に左右されない、楽しそうな雰囲気や仲間感が人気な一方で、あまりに勝敗にシリアスな雰囲気の競技は見ていて辛かったかも。たとえば卓球の女子団体で伊藤美誠選手は、銀メダルをとったのにインタビューでは暗い表情でした。「悔しい部分はありますが、最後まで楽しく戦えました」と言葉では答えていましたが、その雰囲気はスケボー選手たちと全く違うものです。オリンピックというと、国を背負って戦い負けたら泣いて謝るものだと思っている日本人もまだ多いのでしょうが、スケボーがどうしてこれだけ人気なのかを考えれば、それが時代に合わなくなってきていることは明らかです。
「遊び心」は肩身が狭い
――スポーツは本来「遊び」から生まれたんですよね。
湯山 実は私がパラリンピック開会式で一番感心したのはそこなんですよ。「泣いてしまうような圧倒的な感動」よりも、軽快で、やんちゃで、楽しさや「遊び心」がありましたよね。とはいえ、いまの日本って「遊び心」は肩身が本当に狭いんですよ。
――どういうことでしょう?
湯山 「派手に遊ぶ=バブル=悪いもの」というイメージの定着は本当に困りものでして(笑)。断捨離もそうですが、過剰なのは悪いことで、シンプルで真面目で必要最低限であることが良しとされがちですよね。その延長線上にミニマリストなども登場していますし、何と言っても、このコロナ禍で外食やライヴ、そしてストリートでの自由や楽しみ、つまり「遊び」は制限されていて、世間の空気としては非常に旗色が悪い。でも遊びというのは、蕩尽やルール破りの無法ではなく、おカネがなくても可能なクリエイティヴなものです。人間は洞窟に住んでいた頃から必要ないのに歌を歌っていたわけで、文化を教養という徳目から「遊び心ありき」で見直したいものですね。