「菅は裏で岸田を『発信力がないので選挙で勝てない』『何がやりたいのか全くわからない』とこき下ろしてきた」(文藝春秋2020年5月号の赤坂太郎コラム)。  

 官房長官時代の菅義偉による、岸田文雄の人物評だ。「当たらない」を繰り返して説明責任を果たさず、安倍一強の権勢を笠に着るうちに指導者になれると勘違いして総理大臣になってしまった菅が、よく人のことを言ったものである。 

 そんな岸田であるが、前回(昨年9月)に続いて、今月に予定される自民党総裁選への出馬を表明。するとどういうわけか、党役員の任期制を打ち出し、それが「二階おろし」につながっていくなど、これまでのボンクラなイメージとは様相を異にしている。 

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 はたして岸田文雄とは、どんな人となりの政治家なのか。 

「加藤の乱」でトラウマ…岸田が学んだ処世術

 岸田は広島市を選挙区にする、祖父の代からの世襲議員である。1993年の総選挙で初当選、同期には安倍晋三、野田聖子、先日横浜市長選に落選した小此木八郎らがいる。そのよしみもあってか、安倍は首相時代、「後継の本命は岸田さん」としていると言われ続けていた。 

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 たとえば2019年、同期当選の集まりで、安倍が「次の総裁選には出ない。次は岸田さんも候補だね」と話を差し向けた。しかし岸田は無言のままでいて、代わりに野田聖子が「私もいる」と口を挟んだという(文藝春秋2019年4月号の赤坂太郎コラム)。 

 遠慮がちでいること、これが岸田の永田町での処世術だったのだろう。岸田は「加藤の乱」(2000年)の敗軍の兵であった。

 不人気を極めた森内閣当時、派閥「宏池会」の会長・加藤紘一はネット世論に踊らされるうちに、野党と共闘して内閣不信任案の可決を目指す動きを見せるが、自民党主流派の切り崩しにあい、無残な結果に終わる。加藤はじっと順番待ちしていればいずれ総理になったであろうが、自ら仕掛けた政局で政治生命を失った。

 だから、目立てば嫉妬を買い、派手に動けば潰される、この永田町の摂理を岸田は骨身にしみるように知っている。